梅沢(山西)
神社の紹介
「吾妻神社」は吾妻山の山頂(標高136m)にある梅沢の神社で、創建は第12代景行天王の朝に始まると云う。主神は弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)とし、縁結びの神として有名である。また、日本武尊(やまとたけるのみこと)を配祀する。
日本武尊は景行天王の第三皇子であり、天皇にそむく部族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総の国に舟で渡る時。突然荒波に遭い、妻である弟橘媛命は夫にかわり海神の怒りを静めるため、夫の武運を祈り海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。その7日後に弟橘媛命の櫛が海辺に流れ着き、それを埋めて御陵を造ったことから、この地域を「埋澤」といい、現在は梅沢町内の鎮守となっている。また、弟橘媛命の小袖が磯辺に漂いこれを取りて山頂に祭ったと伝えられ、この近辺の海浜は袖ヶ浦海岸と呼ばれている。
日本武尊は東北戦が終わり、帰路相模国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海を眺め「あヽ吾が妻」と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神体は木彫の千手観音で既に数千年星霜を經て現在藤巻寺に安置してある。
源頼朝幕府を鎌倉に創設するや、妻政子本社を崇敬すること浅からず。吾妻山金山と山麓他畑並に霜見塩田を寄附する。右大臣源實頼も祈願のため、建保6年に雄剣を奉納する。昭和初期に県社へ昇格運動があったが実現しなかったという。
鳥居 | 狛犬 |
神社由緒 | |
燈籠 | 手水舎 |
拝殿 | 本殿・幣殿 |
境内 |
神明神社
「神明神社」は吾妻山の山麓の吾妻神社参道の登り口にあり、祭神は大日霊命(おおひたまのみこと)といわれる。当社は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の際に山崩れで埋まってしまったが、現在は境内も整備され社屋も新しく再建されている。祭礼は吾妻神社と一緒に行われている。
神明神社 | 鳥居 |
社殿 | 境内 |
例祭
祭日は年2回(1月・8月)行われ、かつて1月は16日であったが、15日の成人の日に変更された。1月の祭日は二宮町外からも親類縁者が年賀に来て新年会等の日にもなっており、国道1号線の吾妻神社大門から旧道にかけて開かれる市(縁日)や、よさこいパレードには多数の人が訪れ賑わいを見せる。
梅沢囃子
「梅沢囃子」は「梅沢はやし保存会」によって伝承され、大正末期から昭和初期に地域の祭りが盛大になって山車を作り、保存会の母体となる会が発足し囃子を始めた。囃子は小田原市曽我もしくは小田原市前川より習得した「小田原囃子」系のものであるが、どちらから伝わったかわかっていない。太平洋戦争当時は一時中断していたが、戦後に町内の有志の熱意により復活した。昭和25年(1950年)には「梅沢はやし保存会」として会を発足し、山車等を復元製作した。
囃子は「大太鼓2」・「小太鼓4」・「鉦1」と「笛1」で構成され、曲目は「梅沢はやし」・「鎌倉」・「四丁目」・「昇殿(現在は演奏されない)」の順で演奏される。かつては「おかめ」・「ひょっとこ」の踊りを伴ったが、現在は行われていない。吾妻神社祭典(1月8日?)などで演奏され、夏祭り・秋祭りの神輿の先導役としても参加している。
神輿
吾妻村の誕生
明治23年(1890年)の町村制施行により、一色村・中里村・二宮村・山西村・川匂村の5村が合併して「吾妻村」が誕生した。当初は郷名が二宮庄であり氏神が二宮明神であることから、「ニ宮村」でよかろうと神奈川県から指令があったが、山西村は二宮に編入されることを気にしてか反対であった。各字では町名についてそれぞれ議論してみたが結論は出ず、当時村の集会所のような茶屋の釜成屋へ各字有志が集り、三日三晩喧々囂々たる教義を行っても決まることはなかった。
ついに主人の和田銀七氏が村のどこからでも見える吾妻山があるから、吾妻村としてはどうかという意見を出した。一同は疲れ果てた挙句なのでそれがよかろうということで、長い会議に比べて結論は至極簡単に決まってしまった。かくして吾妻村という村名は誕生したが、由来については深い意味があるわけではなく、吾妻山や吾妻神社に因んで吾妻村が誕生したのである。
戻る(中郡の祭礼)