浦賀
叶神社
浦賀地区には浦賀港の両岸に2つの「叶(かのう)神社」があり、正式名称はどちらも叶神社であるが、地元では区別するために西岸を西叶神社、東岸の神社を東叶神社と呼んでいる。
●西叶神社(西浦賀)
西叶神社の縁起によれば、『平家物語』に登場する文覚上人(もんがくしょうにん)が源氏の再興を願って房総半島の鹿野山で修業し、もし自分の願いが叶えられるならば良い土地を選んで神社を建てることを誓った。養和元年(1181年)にこの願いが叶えられそうになり、神社を建てる場所を探した結果、頼朝ゆかりの千葉・鹿野山の対岸である西浦賀の地が選ばれ、ここに「石清水八幡」を勧請したとある。この場所は現在の浦賀丘3丁目にあたり、「文覚畑(もんがくばたけ)」と呼ばれている。文治2年(1186年)に平家が壇ノ浦の戦いで敗れて源氏の世になると、大きな願いが叶ったことにより「叶神社」の称号が与えられたとある。
(一の)鳥居 | 社号柱 |
燈籠 | (西)叶神社 |
(二の)鳥居 | 社号柱 |
燈籠 | 手水舎 |
燈籠 | 燈籠 |
狛犬・燈籠 | 狛犬・燈籠 |
拝殿 | 幣殿・覆殿 |
燈籠・絵馬掛け | 燈籠・絵馬掛け |
絵馬掛け | 雨水桝 |
神額 『叶大明神』 | 石碑 |
現在の社殿は天保13年(1842年)に再建されたもので、社殿を取り巻く多くの彫刻は後藤利兵衛という安房国(千葉県)の彫刻師の若い頃の作品で、これらの仕事が認められた結果、その後、幕府の彫刻師として雇われた。拝殿の格天井の彫刻はいずれも花と鳥の組み合わせで、神殿の棟柱を担ぐ力士像なども他には類を見ない優れた作品であり、これらの彫刻は横須賀市の市民文化資産に指定されている。社殿の下にある銅製の大きな灯籠は浦賀の遊郭によって寄進されたもので、水屋にある石の漱盤(そうばん)も遊郭の主人で、僧侶に転身した江戸屋半五郎が寄進したものである。
向拝の龍 | 向拝天井 |
現在、社務所のある場所は江戸時代には不動明王を本尊とした感応院西栄寺という古義真言宗のお寺があり、高野山から南関東一円に配る御札や加持祈祷に使う品々が送り届けられ、それを配布する役目をしていた。また、この場所には明治4年に西岸学舎が置かれ、東浦賀の乗誓寺に置かれた東岸学舎と明治31年に合併して浦賀小学校が誕生するまで存続していた。その後、高坂小学校が開校するまでは分教場として使用されていた。明治14年に明治天皇が観音崎砲台を視察した際、この教室が休憩所として使用され、その後もこの教室に注連縄が張られ、王座として立ち入りが禁止されていた。
社務所入口 | 社務所 |
明治天皇駐輦之跡記念碑 | 奉納碇 |
境内にはペリー来航時に活躍した浦賀奉行所与力の香山栄左衛門の来歴を記した石碑が社殿脇に立っており、ペリー来航時の日本を代表する香山の来歴はこの石碑以外に知ることはできない。
昭洞香山君碑 | 解説文 |
社殿の右手には境内社があり、文覚畑に続く山道には金毘羅大権現?が祀られている。
福寿辨財天 | |
4つの神社は左から | 船守稲荷・三峯・大鷲・淡島 |
文覚畑に続く | 右手の階段を上がると |
金毘羅大権現? | 境内からの眺め |
●東叶神社(東浦賀)
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると、拝殿は山下にあり、祭神は応神天皇で、生保元年(1644年)9月19日に西浦賀の本社を勧請、牛頭天王社・船玉明神を合祀とある。また、別の言い伝えによれば、元禄5年(1692年)に浦賀村が東と西に分かれた時に西浦賀の叶神社を勧請し、西の叶神社を本宮、東の叶神社を若宮と呼んだともいわれている。
(東)叶神社 | 社号柱 |
鳥居 | 燈籠 |
由緒 | 手水舎 |
社務所 | 石段 |
厳島神社(身代り弁天) | 勝海舟禊の井戸 |
燈籠 | 燈籠 |
燈籠 | 狛犬 |
拝殿 | |
神額 | 拝殿前からの眺め |
絵馬掛け | 絵馬掛け |
神輿庫 | 恵仁志坂 |
湊稲荷社 | 産霊坂修築記念碑 |
産霊坂 | 広場 |
本殿 | (奥の院) |
東照宮 | 神明社 |
勝海舟断食之跡 | 住友重機械殉職者慰霊塔 |
浦賀の歴史
明治3年には東西に分かれていた浦賀村が合併して新たに浦賀村となり、明治9年には浦賀町、明治22年には市町村制に伴って、大津・走水・鴨居を併せた新しい浦賀町が誕生した。
浦賀のまつり
江戸時代の浦賀の祭礼は神輿を白木船にのせ、これを豪華に飾り立てた二隻の船が船唄を歌いながら、優雅に港の中を漕ぐ「御船祭り」をメインにしたものであった。会場では優雅であった神輿も一旦陸へ上がると、待ち構えていた若者が神輿を担いで威勢よく町中を練り、度を越して羽目を外すことは江戸時代からのものであった。文政3年(1820年)の記録によると、西浦賀の宮下町ほか四町内の若者頭が奉行所に呼び出され、「興に乗じて、神輿を勇めすぎぬように」と異例の忠告を受けたことが記されている。
御船祭り形式の祭礼は西浦賀が明治時代になるとともになくなり、東浦賀でも大正初期の台風で船が壊れてから行われなくなった。
付け祭
現在では各町(町内会)から繰り出す神輿が主役となっているが、江戸から明治・大正期にかけての「付け祭り」は山車や屋台が主役であった。江戸時代の浦賀の人々の生活ぶりを書き残した「浦賀事跡考」では、「祭礼の時、屋台というものありて、町々にて屋台の上にて馬鹿太鼓などいたし、大きなる綱にてアリャオリャといふて引き歩きしに、近頃は踊り屋台にいたし」と、同じ屋台による付け祭りでも太鼓のお囃子だけでなく、踊りが入るものに変化していることが記されている。
明治・大正期の祭礼の様子について古老の話では、田中の町内は神武天皇、川間は鍾馗(しょうき)さんで、谷戸の岩見重太郎は一回転すると夜叉王に変化するカラクリ人形であったという。これが大正から昭和になる頃から、祭礼の主役が神輿へと変わっていった。
町内会
町内会 | 神社名 | ||
1 | 浦賀京浜町内会 | 浦上台1・2・3丁目 | |
2 | 芝生町内会 | 浦賀1〜3丁目 | |
3 | 荒巻町内会 | 浦賀4〜6丁目 | |
4 | 浦賀丘住宅地自治会 | 浦賀丘1・2丁目 | |
5 | 浦賀7丁目町内会 | 浦賀7丁目 | |
6 | 宮下町内会 | 西浦賀1丁目 | |
7 | 紺屋町内会 | 西浦賀1丁目 | |
8 | 蛇畠町内会 | 西浦賀1丁目 | |
9 | 田中町内会 | 西浦賀2丁目 | |
10 | 柳町町内会 | 西浦賀2丁目 | |
11 | 高坂町内会 | 西浦賀3丁目 | |
12 | 浜町町内会 | 西浦賀4丁目 | 為朝神社 |
13 | 川間町内会 | 西浦賀5・6丁目 | 第六天榊神社 |
14 | 光風台町内会 | 光風台 | |
15 | 南浦賀自治会 | 南浦賀 | |
他 |
町内会 | 神社名 | |
1 | 東浦賀1丁目町内会 | 八雲神社 |
2 | 新井町内会 | |
3 | 洲崎町内会 | |
4 | 新町町内会 | |
5 | 東浦賀和光台自治会 | |
他 |
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