寄
寄神社
「寄(やどりき)神社」は弥勒寺地区の一番上手の、かつて弥勒堂があった現在の地に鎮座している。境内は約1,000坪で、社殿は三棟一宇の神殿造(29.82坪)で、本殿(5.3坪)・幣殿(7.9坪)・拝殿(17坪)からなり、鳥居と社殿との間には武徳殿(25.7坪)が建つ。宝物は白馬上像、他仏像諸神体、大人神輿1基、子供神輿1基、屋台4台である。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』の弥勒寺村の項には村持ちの鎮守は存在せず、古くは「弥勒寺」と言われた「弥勒堂」が弥勒寺村を含む東山家入七ヶ村(後の寄村)の総鎮守であった。弥勒堂と言っても江戸時代においてはいわゆる神仏混交の寺社である。弥勒堂は文政6年(1823年)の火災により全焼し、一切の古伝や什宝を失った。棟札によると文政10年(1827年)11月に杉崎匠政信棟梁の下に再建された。
弥勒堂は明治元年(1868年)に明治政府の太政官布告の神仏分離策により、仏寺を廃して「弥勒神社」と改称した。明治6年(1873年)7月に村社に定められ、明治8年(1875年)に東山家入七ヶ村が合併して寄村となると、翌明治9年(1876年)4月3日に本殿が新築された。明治11年(1878年)7月に弥勒寺村内の雑社であった稲荷四社を合祀し、その後に境内社であった八坂社を合祀した。明治30年(1897年)には神殿造りに改築され、明治42年(1909年)3月1日に旧東山家入七ヶ村内の8つの神社を合祀して現社名の「寄神社」となった。合祀当時は中郡秦野町上大槻村の菅原神社が兼務しており、社掌(宮司)は鈴野鳳吉であった。現在は菖蒲の上秦野神社の神職によって神事が執り行われる。次に寄神社として合祀された神社(地区名)とその祭神を記載する。
@弥勒神社(弥勒寺):弥勒大神(旧弥勒寺本尊弥勒菩薩)と保食命(うけもちのみこと)の二神、御嶽大神、子大神
A大祖神社(中山):猿田彦命、稲倉魂命、大山祇命、大物主命
B神明社(土佐原):大山祇命、天照大日霊命、稲倉魂命
C神明社(宇津茂):稲倉魂命、大己貴命、天照大日霊命、大山祇命
D山神社(大寺):素盞鳴命、日本武命、速玉男命、大山祇命、大物主命、子大神
E高根神社(宮地):大山祇命、大己貴命、稲倉魂命
F蔵王神社(虫沢):蔵王権現、建速大神、天児屋根命、菅原道真、木花開耶姫命、日本武命、速玉男命、天之常立命、大物主命、稲倉魂命
G子の神社(萱沼):大国主命、大山咋命、菅原道真、素盞鳴命、大山祇命
H山神社(萱沼):大山咋命
寄神社 | 鳥居 |
石碑 | 石碑 |
幟支柱 | 石階段 |
武徳殿 | 燈籠 |
拝殿 | 本殿 |
神額 | 石碑 |
手洗い | 境内 |
大寺の震旦郷
「震旦郷(しんだんごう)」は大寺地区の北北西にある標高758.1mの山で、ここには弥勒菩薩(弥勒さん)の石祠が鎮座しており、これは寄神社の祖神である。寄神社の祭りの早朝に大寺地区では必ず当番に当たった家でお神酒・お赤飯・御供物の御馳走を持ってお参りしている。
伝説では寄神社の後方に聳える震旦郷山の頂上が弥勒堂の元宮とされ、そこから馬乗の弥勒菩薩が直下の中津川の淵に飛び降りたという。その時の馬の蹄(ひづめ)の跡が残った大石が川の端にあり、昭和12年(1937年)の大水で埋まるまでは見ることができたという。また、弥勒菩薩が旧弥勒寺村の飛び地であった稲郷に飛び降り、稲郷にはその馬の蹄の跡が付いた石があったという言い伝えもある。
弥勒寺
「弥勒寺(みろくじ)」がいつの時代に創建されたか不詳であるが、鎌倉時代の初期に源頼朝が意を用いている寺院であったことから、相模国の名刹であったと推測される。かつての寄七か村のうちの一つである弥勒寺村の名の起こりは、弥勒寺という禅刹(禅寺)に由来する。
吾妻鏡によれば建久3年(1192年)8月9日に頼朝の正室政子が産気づくと、頼朝は国内の神社仏寺に神馬を奉じ誦経を修めさせた。鎌倉幕府創建の時代にそのような寺院が15あったが、その中に弥勒寺が入っている。弥勒寺の所在を「波多野」と記しているが、これはこの地域が波多野庄と呼ばれる荘園内にあったからであろう。因みに近隣では酒匂の「福田寺」、坂本の「王福寺」、大磯の「高麗寺」、八幡の「五大堂」、金目の「観音寺」、「大山寺」、「日向薬師」などであった。
室町時代には日本各地を遍歴して修行に励んだ相模国中村郷(現足柄上郡中井町)出身の抜隊得勝(ばっすいとくしょう)が弥勒寺に寓居したことが高僧伝に見られ、抜隊得勝は山梨県塩山の向獄寺(後の臨済宗向獄寺派大本山)を開き、臨済宗向嶽寺派の祖と位置付けられている。しかし、時代が下がると江戸時代には檀家のある寺でもなく、住職も無住だった様で「弥勒堂」と呼ばれていた。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「村内ニ弥勒堂アリ、古ハ弥勒寺ト云リ。故二村名トナル」と村名の起源について述べている。また、高僧伝には名僧得勝禅師が当寺に遇居したと記されており、弥勒寺の寺名の出典は明白であるが、いつの頃より呼んだのかは不明である。風土記稿の作者は弥勒寺には数々の仏像があり、恵心作・弘法作・運慶作と伝えたが、江戸時代の文政6年( 年)に火災のために旧記宝什一切が焼き失せたと述べている。
付近には縄文時代の土器片が散在しており、また弥勒寺住持の墓所であったと思われる石塔もあり、飯田玉雄方に出土した骨壺は鎌倉時代のものと思われる。弥勒菩薩が震且郷から稲郷下の河原へ飛び降り、それが現在の寄神社(昔の弥勒堂)となったという言い伝えがある。
寄神社の大杉と大銀杏(いちょう)
寄神社の外側参道の入口に立つ杉の大樹は推定樹齢が500年と言われ、樹高約30m、胸高周囲6.4mで、地上12mのところでいくつかの太枝に分岐して四方に大きく広がっている。昭和46年(1971年)4月1日に「松田町指定天然記念物」に認定され、更に昭和59年(1984年)12月には「かながわの名木百選」にも選ばれている。
かつて、旧寄村役場横(診療所際)の大榧(かや)および神社石段左側の大欅、そしてこの大杉は往時より「宮下三大木」と称され、寄小と中学校(平成30年度末に閉校)の校歌および応援歌の一節ともなっている。また、寄体育館の緞帳の図柄にも取り入れられ、地域の将来を象徴する名木である。大欅は昭和30年(1955年)の町合併の頃に、学校拡張の費用捻出の一環として伐採され、また大榧もそれと前後して伐採された。大杉も下方の大枝が付近の建築物の妨げになるということで切り取られ、大きく樹形を変えたが樹幹は残されている。
大杉 | 解説 |
また、拝殿に向かって左手前に銀杏の古木が立っており、昭和46年(1971年)4月1日に「松田町指定天然記念物」に認定されている。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』によると、源頼朝は正室政子の出産に当たって相模国の十か寺に祈願のために特使を参拝させたとあり、弥勒寺もその中の一寺に当たっていて、この銀杏はその時に記念のために植樹されたという言い伝えがあるが、実際の推定樹齢は700年と推測されており、この説には疑問が残る。仁孝天皇の文政6年(1823年)に旅人の焚火により堂宇が消失した際に大銀杏も一部焼失したが、再び樹勢を取り戻して神木としての威容を保っていた。しかしながら、平成25年(2013年)10月の台風26号の強風・豪雨によって根本から倒木した。倒木前は樹高30m、枝張12mほどもあり、地域のシンボルであったため、地域の人々の願いにより、幹の上部を大幅に切り詰めて倒木前の五分の一ほどの高さにし、元の場所に植え直された。その後は枝葉の緑も保たれ、現在に至っている。
大銀杏 | 解説 |
道祖神? |
寄の歴史
寄の公称は「やどりき」であるが、地元では「やどりぎ」や「やどろぎ」などと発音している人もいる。寄は西丹沢山系南部の山あいに位置し、集落は中津川と虫沢川沿いに展開する。農林業を生業とするほか、民宿を営む家もある。『吾妻鑑』の建久3年(1192年)8月9日の条には頼朝の妻、政子の安産を祈願した諸社寺の一つとして「弥勒寺」がある。弥勒寺地区に鎮座する寄神社の境内には大銀杏があり、これは政子の安産祈願のため使者に植えさせたものだと伝えている。
寄村勢要覧によると、相模国余綾(よろぎ)郡(のちの淘綾(ゆるぎ)郡)幡多郷と称したとある。この幡多郷と称したのは恐らく寄村地方だけの独立した呼び方ではなく、秦野盆地全体がそのように呼ばれたと考えられ、寄村は秦野の一部であった可能性がある。昔は寄村を「前秦野」と呼んでいたのはその名残りかもしれない。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では「萱沼村」・「彌勒寺村」・「中山村」・「土佐原村」・「宇津茂村」・「大寺村」・「虫澤村」の七ヶ村が挙げられており、萱沼村の項ではこれらを「東山家入七村」と呼ぶとある。これは酒匂川上流の河内川に沿う山奥に川西・湯触・山市場・神縄・玄倉・中川・世附などの小さい村々があり、西山家入七ヶ村と呼ばれ、対称されていたと考えられる。明治8年(1875年)5月に東山家入七ヶ村は合併して「寄村」となったが、寄(やどりき)という名に決めた理由は定かではない。寄村は昭和30年(1955年)4月に松田町に合併され、現在に至る。
明治26年(1893年)に井上毅(こわし)文部大臣が当村に視察に来た時の日記の中に、「寄村は、相模国足柄郡の山奥にて、松田の駅より北の二里許にあり。戸数二百八十、一村挙りて神属の如く、村長おば親父と呼び、吉凶相訪い患難相済い、訴訟なく盗賊なく、はた租に不納なく、さながら太古の民の如し、村長安藤氏はまた村民を視ること、我が子の如く、村の利益を視ること我が家の利益よりも篤く、名主と呼びし時より今日に至るまで、四十余年一日の如く、上下相忘るるありさまは、真に自治の村とぞいうべき・・・」と述べており、次の詠を残している。「我もまた 住まはやとしも 思う哉 みやまのおくの 寄木の里」
また、大正元年(1912年)に神奈川県女子師範学校長の新原俊秀氏が、学校巡視で来村された時も次のうたを残している。「われもまた住まばやと思う 水清く 山静がなる寄木の里」 明治以降「寄」を「やどりき」と呼んでいたことは確かであるが、辞書にはこのような呼び方はなく、またこれと同じ地名は他には見当たらず、変わった地名である。
宵宮 (奉納演奏 開始19:00、合同演奏 終了20:30)
宵宮が行われるようになったのは近年になってからで、当初は弥勒寺祭囃子保存会だけが境内で囃子を演奏していたが、最終的に現在の様に4つの祭囃子保存会が合同で行う様になった。合同で宵宮を行う様になった時期は定かではないが、平成に入ってからだと思われる。
ここでは、令和6年(2024年)3月1日(金)に行われた宵宮の様子を紹介する。各保存会は18時頃から徐々に寄神社に集まり、19時から拝殿にて奉納演奏が行われる。境内には各保存会で直会の場が設けられ、囃子の演奏と共に飲食が行われる。本来であれば宵宮に屋台小屋から四保存会の屋台を境内中央に配置するが、この年は雨のために屋台小屋に収めたままであった。なお、屋台の飾り付けは大祭の朝に行われる。
奉納演奏の順番は決まっており、一番最初が弥勒寺祭囃子保存会、二番目が虫沢・田代祭囃子保存会、三番目が大寺・宮地祭囃子保存会、そして最後が三ヶ村祭囃子保存会である。奉納演奏は19時丁度に始まり、各保存会の演奏時間はおよそ15分弱で、演奏後はお神酒で乾杯する。ちなみに、この年の弥勒寺の発表曲はオオシャ→バカバヤシ→若竹新神楽→トーデー→バカバヤシ→オオシャの順で、曲の最初と最後はオオシャとバカバヤシを必ず入れ、間には段物の中から2曲を選んでいる。奉納演奏が終わったのは20時10分頃で、その後は各保存会が20時30分頃まで屋台の中で囃子を演奏する。
囃子の演奏が終わると直会の後片付けをし、21時10分頃に各保存会は各地区へ戻って行く。弥勒寺では弥勒寺多目的集会施設にて直会を行う。
17時20分にお宮へ来ました | 幟竿が立てられています |
大寺・宮地はシャッターが開く | 拝殿の扉は開けられています |
三ヶ村のシャッターが開けられる | 18時頃に武徳殿の照明がつく |
奉納演奏用の日本酒が2本 | 灯篭に蝋燭の火が灯る |
弥勒寺がシャッターを開けます | 雨なので屋台は出しません |
虫沢・田代のシャッターが開く | 屋台に畳を敷く弥勒寺 |
大寺・宮地・虫沢・田代は雨仕舞 | 弥勒寺も屋台にシートを掛ける |
弥勒寺は車で太鼓を運搬 | そのまま拝殿へ運び込む |
奉納演奏の為に | 太鼓をセットします |
18時30分になると武徳殿に | 弥勒寺がテーブルを並べる |
雨は止みそうもありません | 虫沢・田代はテントを使用 |
18時50分になると弥勒寺が | 拝殿に上がりお盆に |
お神酒用の紙コップを並べる | 緊張感が漂ってきました |
暫く待機すると | 19時丁度に演奏開始 |
厳かな雰囲気です | 19時13分に演奏を終え |
準備されたお神酒を注ぎ | 飲み干すと |
太鼓と台を運び出し | 屋台小屋へ移動 |
続いて虫沢・田代が拝殿へ | 上がり太鼓を設置 |
演奏する順番は決まっています | 19時19分になると演奏を始める |
19時32分に演奏を終了し | お神酒で乾杯 |
太鼓を運んで拝殿の外へ | 三番手の大寺・宮地が |
太鼓をセットし | 19時35分に演奏開始 |
19時47分に演奏を終え | お神酒を飲んで拝殿を出る |
最後の奉納演奏は | 三ヶ村祭囃子保存会 |
太鼓を並べて | 19時51分に演奏開始 |
19時7分に演奏を終え | お神酒を飲んで |
屋台小屋へ戻ります | 弥勒寺は武徳殿で直会 |
奉納演奏後は弥勒寺を筆頭に | 四保存会が囃子を演奏 |
大寺・宮地祭囃子保存会 | 三ヶ村祭囃子保存会 |
弥勒寺祭囃子保存会 | 虫沢・田代祭囃子保存会 |
20時30分頃に演奏を終え | 後片付けを行い |
屋台小屋のシャッターを閉めて | 21時10分頃にお宮を出ます |
私は弥勒寺多目的集会施設へ | 施設内で直会を開きます |
23時30分ごろに解散 | 明日はいよいよ例大祭です |
大祭準備 (開始6:30)
ここからは令和6年(2024年)3月2日(土)に行われた大祭の様子を紹介する。大祭当日は各祭囃子保存会が6時30分頃から集まり始め、屋台の飾り付けを行う。例年であれば宵宮に各地区の屋台を屋台小屋から境内の中央に配置するが、この年の宵宮は雨のために大祭当日に屋台を境内中央に移動させた。8時頃には屋台の飾り付けに目途が付き、8時丁度に弥勒寺が最初に囃子の演奏をはじめ、他の保存会も順次お囃子の演奏を始める。
拝殿では7時55分頃から神輿を幣殿の神輿庫から出して、神輿の準備が行われる。神輿に鳳凰を挿して飾紐を掛けると境内へ下ろし、榊と注連縄を設置する。また、幣殿では式典に向けて祭壇の準備が行われ、餅や鯛などの供物が供えられる。
6時20分頃にやってきました | 幟は下ろされています |
まだ誰も来ていません | 拝殿の扉は開いたままです |
弥勒寺の会員が到着し | 屋台小屋のシャッターを開ける |
太鼓は屋台の中に置いたまま | 三ヶ村の軽トラが |
荷物を積んで到着 | 屋台小屋のシャッターを開ける |
弥勒寺は枯葉を着火剤にして | 廃材の木板に火をつける |
屋台の飾りを積んだトラックが | 大寺・宮地の屋台小屋に到着 |
虫沢・田代もシャッターを開け | こちらも焚火の準備 |
ハンドリフトが2台登場 | 細長い合板4枚を |
2列に並べると | 屋台を小屋から引き出し |
合板の上を転がします | 大寺・宮地もシャッターを開ける |
社殿前に榊の枝が到着 | 弥勒寺と三ヶ村も屋台を出す |
三ヶ村は竹の合板に | 水をかけていきます |
弥勒寺は梃子棒を使って | 屋台の方向を変え |
手で押しながら社殿前へ移動 | 虫沢・田代の屋台小屋前の |
コンクリート土台の上に | 設置します |
続いて三ヶ村も屋台を移動し | 竹の合板の上に載せる |
水を掛けた竹合板上で滑らせて | 方向転換する作戦です |
屋台を東南方向に向けると | 手で押して移動 |
竹合板を運び屋台の下に敷き | 車輪を竹合板に載せて |
方向転換、各地区で異なる | 手法があって面白いです |
弥勒寺の屋台飾りは | 武徳殿に置きます |
虫沢田代ではハンドリフトで屋台を | 持ち上げてタイヤを取り付ける |
寄は標高が高いので寒いです | 方向転換する三ヶ村 |
社殿の右手前に固定した | 弥勒寺は彫刻の取り付け |
大寺・宮地は屋台小屋から | 唯一そのまま直進できます |
三ヶ村は方向転換を繰り返し | 境内の左手前に設置 |
屋台の飾りを積んだトラック | 彫刻はかなりの数です(弥勒寺) |
大寺・宮地は社殿前を通過し | 左奥に止める |
虫沢・田代は屋台を移動 | タイヤが付いているので |
方向転換が容易です | 境内の右奥に止める |
弥勒寺は彫刻の目途がつき | 梯子を掛けて屋上に上がる |
虫沢・田代はリフトでジャッキアップ | 木の車輪に輪留めを敷く |
反対側にハンドリフトを移動し | 屋台を持ち上げて動かない様に |
同様に輪留めを設置 | 各屋台では梯子を(大寺・宮地) |
屋台に掛け(三ヶ村) | 屋上へ上がります(虫沢・田代) |
三ヶ村の彫刻は専用ケースに | 彫刻を固定する弥勒寺 |
虫沢・田代は小さい笠と | 大きい傘を屋上へ |
飾り類を順番に渡していく | 大寺・宮地も小さい傘を渡す |
大寺・宮地はトラックから | 彫刻類をおろします |
虫沢・田代は大きい傘の上に | 小さい傘を取り付ける |
傘を屋上へ上げる弥勒寺 | 大銀杏の剪定をする大寺・宮地 |
三ヶ村も屋上へ傘を上げ | 先端に小傘をセット |
彫刻を取り付ける虫沢・田代 | 傘は弥勒寺が最初に上げる |
仕来りになっています | 傘を立てて慎重に |
開いていき | 綺麗に広がりました |
弥勒寺は武徳殿にて | 飾りを作ります |
続いて虫沢・田代も | 傘を立てます |
こちらは大寺・宮地 | 美しいです |
最後は三ヶ村が傘を広げ | 四つの屋台全てで |
傘立てが完了しました | 飾り作りが続く弥勒寺 |
各地区ロープで(弥勒寺) | 傘の中棒を固定(大寺・宮地) |
武徳殿では梯子を掛け | 軒下に花を挿していく |
反対側も同様に | 花を挿します |
ここで砂を積んだダンプが | 4基の屋台の中央に入り |
砂をおろして慣らし | 水たまりを埋めていく |
各屋台は傘に(大寺・宮地) | 飾りつけを行う(三ヶ村) |
軒下には(大寺・宮地) | 提灯が付きます(三ヶ村) |
屋根の欄干には(弥勒寺) | 花を挿していく(大寺・宮地) |
屋台の入口には暖簾(弥勒寺) | 武徳殿の花飾りが完了 |
時刻は7時55分 | 拝殿では神輿の準備 |
露盤から飾紐を四隅の蕨手へ | 露盤へ鳳凰を挿す |
神輿の収納場所です | こちらは子供神輿 |
8時丁度になると弥勒寺が | お囃子を始める |
弥勒寺の屋台前には | 受付のテーブルが設置 |
屋台を出した各地区の(弥勒寺) | 屋台小屋は(三ヶ村) |
受付や(大寺・宮地) | 休憩場所となります(虫沢・田代) |
四隅に弓張提灯(大寺・宮地) | こちらは神社関係の受付 |
弥勒寺に続き三ヶ村でも | お囃子が始まる |
飾紐を巻き終えた神輿は | 馬を抜き |
輿棒を抱えて慎重に | 拝殿を出る |
神輿に肩を入れ | 境内へ降りると |
燈籠の間に | 神輿をおろします |
三ヶ村に続き大寺・宮地でも | 演奏を開始 |
朝食を調理する弥勒寺 | 神輿に榊を付ける |
神社の受付では次々と | 供物が届き |
社殿へ運んで | 祭壇へ並べていく |
神輿の注連縄に紙垂を付ける | 熨斗紙は屋台に貼付け(弥勒寺) |
既に幟が上がっています | こちらは出店のトラック |
時刻はもうすぐ9時です | 境内に囃子が鳴り響く |
幣殿では式典の準備が進み | 胡床が並べられる |
上秦野神社の神職が到着 | 社殿へ向かい祭壇を確認 |
神輿前も式典の準備 | 拝殿にも胡床が並べられる |
奥の本殿でも神事の準備 | 豪華な供物が並びます |
境内に鳴り響く(三ヶ村) | 寄の祭り囃子(大寺・宮地) |
虫沢・田代も演奏に加わります | 屋台の中は狭いです |
式典 (開始10:00)
10時になると社殿にて上秦野神社の神職(禰宜)により神事が執り行われる。神事は10時30分頃に終わり、10時40分からは境内の神輿の前で発輿の儀が執り行われる。
スーツを来た氏子が | 集まってきました |
神職(禰宜)は式典に向け | 準備を進めます |
9時50分頃になると | 関係者が拝殿に上がり |
10時になると | 神事が始まる |
拝殿と | 幣殿は出席者で埋まります |
神事中は各祭囃子保存会の | 会員は境内で待機 |
神輿の担ぎ手(白丁)が到着 | 弥勒寺と三ヶ村の白丁は |
それぞれの屋台前で記念撮影 | 10時30分頃に神事が終わり |
神輿では式典に向けて | 祭壇の準備が行われる |
白丁が神輿前に集まり | 10時40分に |
発輿の儀が始まる | 神輿を修祓 |
白丁と参列者をお祓い | 続いて祝詞奏上 |
玉串奉奠は神職に続き | 神社総代会長 |
続いて神輿渡御代表 | 最後に神輿行列代表 |
最後は乾杯で式典は終了 | 白鳥が手締めを行う |
神輿宮立ち (発輿10:55、鳥居11:00)
発輿の儀が終わると8人の白丁が神輿に肩を入れ、神輿を差し上げると社殿前を出発する。囃子の屋台では弥勒寺から順次囃子が演奏される。神輿は11時頃に寄神社を出発し、寄地区を巡行する。
白丁は神輿に肩を入れ | 神輿を差し上げる |
勢い余って傾きました | 神輿を担ぎ直して出発 |
弥勒寺はオオシャを演奏 | 神輿は屋台の間を抜ける |
行列と神輿は武徳殿を通過し | 階段を下ります |
神輿の行列は衣装もあり | 見応えがあります |
神輿も階段を下り | 参道を進む |
鳥居を潜り寄地区を | 巡行して行きます |
※神輿巡行の様子は下記の神輿巡行の前半と後半を参照。
神輿巡行(前半)
神輿巡行(後半)
場所 | 囃子担当 | 到着 | 出発 | |
― | 寄神社(宮出し) | ― | ― | 11:00 |
@ | 札場 | 弥勒寺 | 11:10 | 11:25 |
A | 萱沼 | 大寺・宮地※年番制 | 11:40 | 11:55 |
B | 田代向 | 弥勒寺 | 12:05 | 12:20 |
C | 虫沢 | 虫沢・田代 | 12:25 | 12:40 |
D | 田代 | 虫沢・田代 | 12:50 | 13:05 |
E | 宮地 | 大寺・宮地 | 13:15 | 13:30 |
F | 弥勒寺 | 弥勒寺 | 13:40 | 13:55 |
G | 宇津茂 | 三ヶ村 | 14:00 | 14:15 |
H | 稲郷 | 三ヶ村 | 14:20 | 14:35 |
I | 大寺 | 大寺・宮地 | 14:40 | 14:55 |
J | 土佐原 | 三ヶ村 | 15:05 | 15:20 |
K | 中山 | 三ヶ村 | 15:30 | 15:45 |
― | 寄神社(宮入り) | ― | 16:00 | ― |
※時刻は予定されたもので、状況によって前後する。
このあとは神輿宮入りへ。
囃子
寄の祭囃子は弥勒寺(みろくじ)・虫沢(むしざわ)・田代・大寺(おおてら)・宮地(みやじ)・宇津茂(うづも)・土佐原(どさばら)・中山(なかやま)に伝承され、昭和59年(1984年)5月23日に「松田町指定重要無形民俗文化財」に認定された。
曲目は「オオシャ・オーシャ/王者」・「バカバヤシ/馬鹿囃子」のほか、「ヒナアソビ/雛遊び」・「ニアガリ/二上り」・「キョウキョウ/京京・京々」・「サンサガリ/三下り」・「ガク/学・楽」・「コカグラ/小神楽」・「ハヤシシャギリカタシャギリ/林車桐片車桐」・「ワカタケシンカグラ/若竹新神楽」・「カマクラ/鎌倉」・「トーデー・ドウデェ」・「ホンチョウシ/本調子」・「デーデー・デエデエ/代代・太太」・「スナガキ/砂書」の計15曲がある。かつては「ミヤノサカ」という曲があったが、現在は曲名だけが伝承されている。オオシャとバカバヤシの二曲は神輿の出発と到着に際して演奏され、この他の13曲は総称して「ダンモノ(段物)」と呼ばれ、神社に奉納するための曲である。なお、段物に関しては演奏する順番は決まっていない。
楽器構成は「笛」・「小太鼓/小胴(コド)/締太鼓)」・「大太鼓/大胴(オオド)」で、三ヶ村では数十年前までは「鉦」も使用したという。また、三味線を使ったという言い伝えもあるが、これは相当古くに失われた様である。オオシャとバカバヤシの場合は「笛1」・「小太鼓2」・「大太鼓1」で、この二曲は笛が自由に吹ける部分が多く、吹き手によって差が大きい。本数が増えると合わせるのが難しくなるため、通常は笛1本で行う。また、段物では笛2名が標準である。笛は七孔のものを使用し、笛役の人が自作することもあるといい、材料は女竹で節の長いものを用いる。この他に河原などに生えるイタドリ(虎杖)という草を使う場合もあり、冬季に固くなるのでそれを取って笛に加工する。良い音がするが、耐久性に欠ける。
この囃子に舞や踊りは伴わず、屋台の中では大太鼓以外は着座して演奏する。歌詞は伴わず、掛け声としてはヒナアソビ・キョウキョウ・サンサガリ・コカグラ・トーデー・デーデーの際に「ドッコイソコダ」と唱える。ふん装としては保存会で作成した揃いの法被を着用する。寄神社の祭礼で囃子を演奏する場所は、宵宮は神社の拝殿、例祭当日は境内に据え置かれた屋台の中である。また、神輿渡御に際しては休憩場所でも演奏する。
この祭囃子がいつどこから伝来したか不明である。江戸からとか小田原からといった伝来経路も分かっていないが、江戸の系統ではなく、独特なものとして注目されて来た。段物という呼称やガク・カタシャギリ・本調子などという曲名は歌舞伎囃子にも見られる。曲目に関しては地元ではオオシャは当地独特なものと言っており、県内では当地でしか演奏されない曲が多く、大変貴重な囃子である。各地区の囃子は若干の違いはあるものの、ほぼ共通している。四保存会の中には伝承が途絶えてしまい、8曲ほどしか演奏できなくなったところもある。弥勒寺祭囃子保存会には15曲が残されていて、伝承に努めている。
以下に令和6年(2024年)の各祭囃子保存会の宵宮での奉納演奏の様子を紹介する(発表順)。
@弥勒寺
A虫沢・田代
B大寺・宮地
C三ヶ村(宇津茂・土佐原・中山)
屋台
寄神社には四保存会がそれぞれ屋台を所有しており、かつては弥勒寺と三ヶ村の屋台は札場まで曳かれたという。屋台の製作年代は不詳であるが、別の地区から譲り受けたという言い伝えもある。いずれにしても文献や言い伝えでは遡れないため、かなり古い時期に製作されたと推定される。
屋台には丸太を加工した車輪が付いているが、方向転換することは出来ない。屋台の方向を変える手段は各保存会でそれぞれ異なり、弥勒寺は梃子棒を使用、三ヶ村は水で濡らした竹の合板の上で車輪を滑らせる、虫沢・田代は旋回できるゴム製の車輪を四隅に取り付ける、大寺・宮地は唯一屋台小屋から境内中央の設置場所が一直線なので、大きく方向転換をする事がない。
寄神社の祭礼では四基の屋台が境内の広場に配置されるが、屋台を置く位置は決まっており、弥勒寺が社殿に向かって右手前、虫沢・田代が右奥、大寺・宮地が左奥、三ヶ村が左手前となっており、各屋台が置かれる場所には四角形のコンクリートの土台が設置されている。
○弥勒寺
全体(右手前) | 内部 |
南 | 北 |
東 | 西 |
〇虫沢・田代
全体(右奥) | 内部 |
南 | 北 |
東 | 西 |
〇大寺・宮地
全体(左奥) | 内部 |
南 | 北 |
東 | 西 |
〇三ヶ村
全体(左手前) | 内部 |
南 | 北 |
東 | 西 |
各屋台には専用の小屋が立てられており、境内の西側の小屋は奥が三ヶ村で手前が弥勒寺、東側の小屋は奥が大寺・宮地、手前が虫沢・田代となっている。なお、屋台小屋と境内での屋台の配置一は異なる。屋台の屋上には傘を立てるが、弥勒寺が最初に傘を立てたのを確認してから他の保存会が傘を立てるのが習わしとなっており、祭礼終了後に傘を抜く時も同様に弥勒寺が一番最初に下ろすことになっている。傘には紙で折られた花が飾り付けられ、傘以外にも竹に花を取り付けた飾りもある。これらの準備は大祭の1週間前の日曜日に行われる。
〇屋台小屋
弥勒寺(左)/三ヶ村(右) | 大寺・宮地(左)/虫沢・田代(右) |
〇飾り(弥勒寺)
傘(大) | 傘(大) |
花 | 傘(小) |
万燈 | 屋台の横に挿す花飾り |
花見本 | 花見本 |
囃子の伝承組織
かつては地区の16歳から35、6歳までの男子が加入した「青年団」が中心となって祭りが運営されていて、囃子は家の長男が受け持った。しかし、青年団が解散されたことにより囃子の維持が危惧されたため、昭和45,6年(1970,71年)頃に屋台毎に祭囃子保存会が結成された。これが現在の「弥勒寺祭囃子保存会」、「虫沢・田代祭囃子保存会」、「大寺・宮地祭囃子保存会」、宇津茂・土佐原・中山からなる「三ヶ村祭囃子保存会」の四つの保存会である。次いで昭和47,8年(1972,73年)頃にこれらをまとめる為に本部が設置された。昭和51年(1976年)の第十二回神奈川県民族芸能大会が開催され、県文化財専門委員の推薦を受け参加することになった。これを機会に四つの保存会がまとまり、昭和54年(1979年)に正式に「寄祭囃子保存会」が発足した。
四保存会の役員組織は会長、副会長、会計からなり、寄祭囃子保存会はそれぞれの保存会から代表者が一名ずつ出て運営される。寄祭囃子保存会の会長は代表者の互選によって決められ、任期は二年である。平成17年(2005年)時点の会員数は約300名で、地区の成人男性が参加した。おもに家の長男が参加し、不幸があると参加を遠慮したという。現在は氏子数の減少に伴い、女性も加入している。
伝承方法については各保存会に分かれて、それぞれ独自に練習する形式である。かつては楽譜はなく主に口伝によって伝承されていた。太鼓毎に全曲演奏できる師匠と呼ばれる指導者がいて、笛の場合はまず師匠は弟子を前にして一節ずつ符牒(口譜)を唱えてから手本を見せた。それを弟子が聞いて覚え、その通りに真似、節(旋律)は予め覚えておいた。昔通りに伝承しているとされるが、実際には師匠によって音の長短や音色に関して違いが出るという。小太鼓の場合は「テンテコマッツァン」や「テンテコマッタン」などと覚える。合奏する際は笛がリードして、太鼓はそれに合わせる。オオシャと馬鹿囃子は「にぎやかし」なのでテンポをできるだけ速くするが、笛が遅くなる傾向があり、太鼓がうまく合わせる必要がある。弥勒寺では現在、符牒を冊子にしてあるので、それを見て覚える。また、録音記録があり、普段はそれを聞いて習得に励む。
弥勒寺の符牒 | 笛の旋律をカタカナで表記 |
練習はかつては民家をヤド(宿)にして行ったが、現在は各集会施設で行っている。弥勒寺の場合は平成17年(2005年)頃には毎月20日と2月の月・水・土曜日の19時30分から2時間ほどで、この他に2月1日は稽古始め、2月15日は中稽古といって、この日は19時から練習した。また、宵宮には練習を兼ねて19時より囃子を神社に奉納する。練習では始めと終わりにオオシャを演奏することになっている。
保存会の活動状況について、かつては寄神社の祭礼に参加する他に、定期に5月5日の若葉祭、8月下旬の松田町観光祭、10月下旬の松田文化祭といった町の行事に参加し、不定期には県民俗芸能大会(昭和51年参加)、開成町あじさい祭(平成16年参加)、松田町生涯学習の催し(平成17年参加)などに参加していた。四保存会が当番制で一保存会ずつ参加し、運営費用は各会員より年会費を徴収し、そのほかは各自治会および祭典本部より補助金を得てそれに充てていた。現在は寄神社の祭礼以外の行事には参加していない。
囃子練習(弥勒寺祭囃子保存会)
ここでは令和6年(2024年)2月24日(土)に行われた弥勒寺祭囃子保存会の練習の様子を紹介する。弥勒寺祭囃子保存会は四保存会の中で一番会員数が多く、令和6年2月時点で35名である。時間は19時30分から21時で、場所は弥勒寺多目的集会施設で行われる。練習は最初に「オオシャ」から始まり、続いて「バカバヤシ」を演奏する。次にその年の宵宮で奉納する段物2曲を繰り返して練習し、令和6年は「若竹新神楽」と「トーデー」であった。段物の練習が終わると「バカバヤシ」を演奏し、最後に「オオシャ」を演奏して練習が終了する。練習後は22時30分頃まで懇親会が行われ、22時40分頃に解散となる。
弥勒寺では昔は笛、小太鼓、大太鼓のどれか1つだけしか演奏してはいけない規則になっていた。現在は会員が少なくなったことで小太鼓と大太鼓は両方叩いて良い事になっているが、笛と太鼓を両方演奏することは今でも禁じられている。なお、大太鼓は立って叩くが、小太鼓と笛は基本的に正座をして叩くことになっている。寄の祭囃子は曲数が多いが、弥勒寺では奉納演奏で選曲する段物2曲を毎年変えることにより、現在でも13曲の段物を伝承している。笛の調子はオオシャと馬鹿囃子が五本調子で、段物が四本調子である。また、太鼓のバチの材質はシナノキで、地元で作っている。
場所は弥勒寺多目的集会施設 | 19時半丁度にオオシャが始まる |
小太鼓と笛はそれぞれ1人ずつ | 演奏者は基本的に正座です |
続いてバカバヤシを演奏 | 小太鼓は2人で交代しながら叩く |
笛は1人です | 途中で師匠の指導が入ります |
ここからは段物の練習 | 最初の曲は若竹新神楽 |
小太鼓と笛は各2名 | 続いてはトーデー |
宵宮と大祭で奉納する2曲を | 交互に繰り返し練習します |
ここでも師匠の指導が入ります | トーデーは太鼓が1名だけです |
段物の練習が終わると | バカバヤシを演奏し |
最後はオオシャで締め括ります | 非常に緊張感のある練習でした |
21時頃に練習を終えると | 後片付けをし |
テーブルを並べて | 親睦会が行われます |
22時30分に終わり | 22時40分に解散 |
神輿
寄神社には大神輿1基と子供神輿1基があり、製作年代は共に不詳である。子供神輿は子供の減少によりコロナ前の2019年(平成31年)の例大祭で担がれたのが最後となっている。大神輿の担ぎ手は白装束姿の8人で、厄年(42歳)を迎えた男衆となっていたが、現在はなり手が少なく年齢制限はない。神輿を担ぐ時の掛け声は「ヤイトーサッセ」で、伊勢原市三ノ宮の比々多神社神社神輿の掛け声である「ヤートーサッセ」と極めて似ているが、テンポは寄神社の方が早い。
渡御行列については文献によって内容が異なるため、時代と共に変遷していると考えられ、その規模は縮小傾向にあると推測される。現在の渡御行列に関しては、先頭に道を清める塩撒きが1名、その後に幟持ちが1名、大天狗と小天狗(鴉天狗)が1名ずつ、榊持ちが1名、竹の杖を突いた者が4名、紋付袴姿の警護役が5名、賽銭持ちが1名、神輿台担ぎが2名、神輿を担ぐ白丁が8名、最後に各団体の役員と上秦野神社の神職が続く構成になっている。
かつては上記の他に太刀・槍・弓・鉄砲などを持った侍が参列したという記述がある。また、神輿担ぎの8人は休憩の後に復路をとるか、寄各地へなお進むかはその年の決議に従っていたという。
正面 | 背面 |
右側 | 左側 |
神輿庫(幣殿内) | 子供神輿 |
大神輿(2008年) | 子供神輿(2008年) |
寄神社の祭礼
寄神社の祭礼は3月第一土曜日の例祭および前日の宵宮(ヨミヤ)に行われる。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では弥勒堂(弥勒神社の前身)の例祭日を2月5日とし、「祭式は、都て神社の如し、神輿村内を渡す」と記されている。明治42年(1909年)に寄神社と改称されてからは3月5日であったが、参加者の都合を考えて昭和60年(1985年)に3月第一土曜日に変更した。
明治42年(1909年)の合祀後の祭礼は盛大で、余興として歌舞伎芝居や義太夫なども上演され、夜明け近くまで賑やかだったという。昭和になってからも興行師が入って芝居興行が行われたが、昭和12年(1937年)頃から戦時体制となり、次第に芝居興行などは自粛されて中止となり、終戦までは神輿渡御と祭囃子のみとなった。第二次世界大戦後の祭典は戦前のような芝居興行が復活し、暫くの間は賑やかになりつつあったが、昭和30年代後半からは高度経済成長の時代を迎え、テレビ時代の幕開けと共に旧時代の役者芝居なども上演されなくなった。また、一時はカラオケ大会なども試みられた。
明治末期までは各地区に「若者組」という組織があり、数えの16才になると3月5日の寄神社祭礼時の若者組の寄り合いに酒一升を持って行き、仲間入りを果たした。神社の祭礼の施行および道普請への参加というのが若者組の主な仕事であり、中堅の大世話人や小世話人の指導の下に執り行った。明治42年(1909年)4月の合祀に合わせて「青年団」と名称を変え、昭和12年(1937年)には青年団が主体となって祭典規定が取り決められた。
平成17年(2005年)の休憩場所は次の通りである。@弥勒寺の札場、A萱沼(かやぬま)公民館前、B田代向(むかい)の空き地、C田代公民館前、D虫沢公民館前、E宮地公民館前、F弥勒寺のバス停西庭入口駐車場、G宇津茂公民館前、H宇津茂の民宿前空き地、I大寺公民館前、J土佐原公民館前、K中山の個人宅前空き地、渡御はかつては@弥勒寺の札場までだったが、近年は寄地区全体を回る。
各休憩場所での演奏はその地元の囃子保存会が担当する。したがって@とBは弥勒寺地区のため弥勒寺が行う。なお、かつては獅子があったという。A萱沼地区には囃子がないため、四保存会が順に演奏を受け持ち、平成17年(2005年)は虫沢・田代が担当した。また、Hは本来は稲郷で行われるべきだが、遠いためにここで行っている。
ここからは、平成17年(2005年)の祭礼の様子を紹介する。3月4日(金)に行われた宵宮は午後7時より神社の拝殿内で各保存会が囃子を奉納し、弥勒寺、虫沢・田代、大寺・宮地、三か村ヶ村の順に演奏したが、前年までは神社が位置する弥勒寺のみが行っていた。各保存会とも始めと終わりはオオシャと馬鹿囃子を奏し、その他は、弥勒寺は京京とトーデーと若竹新神楽、三ヶ村はヒナアソビと鎌倉を演奏した。
翌5日(土)の例大祭当日は、午前5時頃に大寺地区では神社に祀られている弥勒菩薩が出現されたとされるシダンゴ山の頂に当番の人が行き、石の祠に清酒と赤飯を供える。境内では午前7時より祭りの準備が行われ、屋台を倉庫から出してカサや彫り物を取り付けたりする。それが終わるとチラシと称して「にぎやかし」に囃子を始める。かつては神輿のお立ちまでは囃子を控えたが、その後、馬鹿囃子を奏するようになり、今日では時間があるためオオシャ以外であればどの曲を演奏しても良いことになっている。
午前10時より神社で祭典が行われ、午後11時より神輿の渡御が執行される。神社での神輿の出発と到着時には弥勒寺から囃子を始めることになっていて、弥勒寺がオオシャを始めると他地区もそれに続き、そして馬鹿囃子となる。また、神輿の休憩場所でもこのオオシャと馬鹿囃子が神輿の到着と出発に際して演奏される。
午後4時に神輿が神社に戻って還御祭を執行する。ついで「ご祝儀」と称して、虫沢・田代、大寺・宮地、三か村、弥勒寺の順に段物を奉納する。この段物の演奏は虫沢に「権利」があるといい、そのため演奏も虫沢から始めるものとされている。弥勒寺以外の地区は神社合祀後に新たに祭礼に加わったため、弥勒寺では他の地区を「客」と位置付けていて、なかでも虫沢は遠くから参加するのでその上位に置き、祭典後の囃子の奉納は虫沢に主催する権利を持たせたことによる。各地区の神社が弥勒神社に合祀されるまでは弥勒神社への囃子の奉納は弥勒寺のみが行い、各地区ではそれぞれの地区で祀る神社の祭礼時に囃子を奉納したという。
奉納の一巡目は保存会の中で新しく習い始めた人が担当し、虫沢・田代と大寺・宮地はヒナアソビ、三か村は鎌倉、弥勒寺は京京、二巡目は達者な人が加わり、虫沢・田代はデーデー、大寺・宮地は若竹新神楽、三か村はヒナアソビ、弥勒寺はトーデーを奏する。最後に弥勒寺が特別に若竹新神楽を演奏した。この祝儀に際しては保存会の会長と副会長がその演奏を聞いて回ることになっている。その後、チラシと称して各屋台が自由に曲を選んで演奏する。この後、かつては時代劇などの芝居が行われた。
祭典翌日にザンバライと称して祭の後片付けをする。弥勒寺では午前9時に公民館で神社に奉納された鏡餅を切り分け、あとで組長が各戸に神社の札とともに配って歩く。
祭壇に供えられた鏡餅 | 弥勒寺配布分 |
神輿宮入り (鳥居16:20、着御16:35)
寄地区の巡行を終えた一行は寄神社の手前で渡御行列を組み、鳥居を潜って宮入りすると、宮出しの時と異なり武徳殿の西側の参道から社殿前の広場へ入る。神輿は直ぐには着御せずに境内の奥へ進み、幣殿と本殿の間を通り抜けて再び広場へと戻る。四保存会の屋台では囃子が演奏され、白丁は神輿を揉みながら時計回りに境内を3周し、最後は武徳殿前から社殿へ向かい、境内中央で神輿を差し上げてから16時35分頃に着御した。
一行は神縄神山線を南下し | 寄神社の手前で停車 |
神輿を荷台からおろし | 宮入りに向けて出発 |
渡御行列を組み | 鳥居前で左折 |
神輿も後に続き | いよいよ |
鳥居を通過 | 露店の間を進んで行く |
宮入りは正面の階段ではなく | 左手の脇道を通る |
一行は屋台が並ぶ | 広場へ入り |
神輿はいきなり | 暴れ始めます |
左右に大きく | 神輿を振りながら |
左手の屋台小屋前を通過し | 社殿横を進み |
幣殿と本殿の間を | 通り抜けて行く |
渡御行列は社殿の右手から | 再び広場へ戻ります |
四保存会の屋台ではそれぞれ | 囃子を演奏(虫沢・田代) |
神輿はここでも | グルグルと旋回 |
神輿を駆り立てる囃子(弥勒寺) | なかなか先に進まない神輿 |
ようやく武徳殿前で右折 | 賑やかな宮入りです(三ヶ村) |
神輿は境内を一周し再び | 境内の奥へ向かう(大寺・宮地) |
屋台小屋の前を通過し | 社殿横を通過 |
本殿前を通過し | 広場へ戻ります |
屋台横まで来るが | 再び奥まで戻る神輿 |
神輿に加わる者が増え | 勢いを増します |
武徳殿前を通過し | 2周目が終わります |
3周目に突入し | 行列は再び社殿裏を潜る |
時計回りに | 境内を回ります |
神輿に加わる保存会が | 増えてきました |
神輿は奥へ押し戻され | 再び屋台横へ |
最後の3周目なので | この日一番の暴れっぷりです |
旋回と左右の揺らしを繰り返し | 近づくのは大変危険です |
神輿はようやく武徳殿へ向かい | 弥勒寺の屋台で右折すると |
直ぐに右折して社殿へ向かい | 屋台の中央で揉む神輿 |
勢い余って | 倒れこむ白丁 |
最後は神輿を差し上げて | 無事に着御しました |
還御祭 (開始16:35)
神輿が着御すると直ぐに神輿前に祭壇を設置し、境内中央にて還御祭が執り行われる。還御祭が終わると神輿前で鏡開きが行われ、神輿の鳳凰と飾紐を外して神輿を社殿へ納める。
神輿に祭壇を設置し | 還御祭が執り行われる |
最初に修祓 | 神輿と |
参列者をお祓いし | 続いて祝詞奏上 |
続いて神社総代会長から | 玉串奉奠、神輿渡御代表 |
最後は神輿行列代表 | 御霊を神輿から社殿へ遷す |
白丁が手締めで | 還御祭が終了 |
神輿前で鏡開きを行い | お神酒で乾杯 |
白丁のあとは皆で | お神酒を頂きます |
記念の酒舛を頂きました | この年の露店は |
境内に2店と参道の9店 | を合わせて合計11店 |
縁起が良いということで | お赤飯を頂きました |
神輿では飾紐を外し | 鳳凰を抜いて |
社殿へ移動 | 提灯を外し鈴緒をずらすと |
神輿を抱えて | 社殿へ移動 |
正面から入り | 拝殿を通り抜け |
左側から幣殿へ入る | 箱台輪から |
輿棒を抜き | 幣殿に設けられた |
収納庫へ | 神輿を納めます |
扉を閉めて | 馬をしまう |
ご祝儀/奉納演奏 (開始17:10、終了18:30)
還御祭が終わると境内では四祭囃子保存会の奉納演奏が行われ、演奏順番は虫沢・田代、大寺・宮地、三ヶ村、弥勒寺となっており、この順番を2周繰り返す。なお、虫沢・田代が一番遠くにあると理由から、一番先に演奏することになっている。
奉納演奏を行う前に各屋台の前では各保存会の会長と副会長による挨拶回りが行われ、挨拶を受ける保存会は日本酒を振る舞い、挨拶をする保存会は出された日本酒を飲み干す。挨拶周りはまず奉納演奏の主催者である地元の弥勒寺が、これから奉納演奏がはじまることを伝える為に、他の三保存会にそれぞれ挨拶回りに行く。次に弥勒寺が一番最初に演奏を行う虫沢・田代へ演奏依頼の挨拶へ行き、依頼を受けた虫沢・田代はこれから演奏を行う旨を伝える挨拶を他の三保存会へ行う。挨拶が終わるとようやく虫沢・田代が演奏を行い、演奏が終わると演奏が無事に終わったことを伝える挨拶を他の三保存会へ行う。以上のような流れで四保存会が奉納演奏を終えると、全く同じ流れで2回目の奉納演奏が行われる。奉納演奏が終わると最後に寄祭囃子保存会の会長と副会長が挨拶回りを行い、奉納演奏が終了する。
この挨拶から奉納演奏までの一連の流れを「ご祝儀」と称し、ご祝儀が終わると四保存会が合同で演奏を行う。なお、奉納演奏の主催者である弥勒寺は自会の演奏の報告以外に、全体の演奏の開始の挨拶をするため、他の三保存会よりもお神酒を飲む回数が多くなっている。また、ご祝儀で出されるお神酒の量は時代と共に少なくなっており、現在は小さい紙コップになっているが、かつては湯飲みや枡などに並々注いでいたという。
奉納演奏に際して弥勒寺が | 他の三つの保存会に挨拶回り |
続いて弥勒寺が奉納演奏が | 始まることを伝える(虫沢田代) |
毎回お神酒を頂き(大寺・宮地) | 毎回自分の屋台へ戻ります |
三つの保存会に(三ヶ村) | 報告を済ませると |
虫沢・田代に奉納演奏の | 依頼の挨拶に行く |
依頼を受けた虫沢・田代は | 他の三つの保存会にこれから |
奉納演奏をすることを | 報告に回る(弥勒寺) |
毎回必ず自分の屋台に戻る | 挨拶の際は必ず(大寺・宮地) |
お神酒が振る舞われる(三ヶ村) | 挨拶周りを終えると |
虫沢・田代が最初に | 奉納演奏を披露 |
5分弱で演奏を終えると | 弥勒寺へ演奏が無事に |
終了したことを報告します | 続いて大寺・宮地と |
三ヶ村にも同様に報告 | 続いて虫沢田代が大寺宮地に |
奉納演奏の依頼の挨拶 | 依頼を受けた大寺・宮地は |
他の三つの保存会に(虫沢田代) | 奉納演奏することを(三ヶ村) |
伝えます(弥勒寺) | 挨拶回りを終えた大寺宮地は |
奉納演奏を開始 | こちらも5分弱で演奏を終え |
大寺宮地は無事に(虫沢田代) | 演奏を終えたことを(三ヶ村) |
伝えます(弥勒寺) | 挨拶回りを終えると |
今度は三ヶ村が奉納演奏を | 始めることを(大寺・宮地) |
他の三つの保存会へ(弥勒寺) | 伝えに回ります(虫沢・田代) |
挨拶回りを終えると | 三ヶ村が三番目に |
奉納演奏を行う | 5分弱で演奏を終え |
三ヶ村は奉納演奏を(大寺宮地) | 終えたことを(弥勒寺) |
伝えに回る(虫沢・田代) | 挨拶回りを終えると |
続いて弥勒寺が(三ヶ村) | 奉納演奏をする事を(虫沢田代) |
伝えに回り(大寺・宮地) | 5分弱の奉納演奏を行う |
演奏を終えると(虫沢・田代) | 奉納演奏を終えた(大寺・宮地) |
事を伝えに回る(三ヶ村) | 虫沢・田代が |
挨拶のみに訪れ(お神酒無し) | 弥勒寺がこれから(虫沢・田代) |
2巡目の奉納演奏を(大寺宮地) | 始める事を伝える(三ヶ村) |
次に弥勒寺が虫沢・田代に | 演奏を依頼し2巡目も |
虫沢・田代から演奏開始 | ご祝儀は1巡目と同じ流れで |
進み最後は弥勒寺で締める | 奉納演奏が終わると |
寄祭囃子保存会が祝儀として | 虫沢・田代、大寺・宮地 |
三ヶ村、弥勒寺にお神酒を | 頂きながら挨拶に回る |
奉納演奏後は(弥勒寺) | 弥勒寺から始まり(虫沢・田代) |
四保存会が合同で(三ヶ村) | 囃子を演奏(大寺・宮地) |
大祭片付け (開始18:30)
18時30分を過ぎると各保存会は片付けを始め、弥勒寺から順次傘を抜いて、飾りや彫刻を外していく。19時30分頃には片付けが終わり、各保存会は地元へ戻って直会を行う。
18時半を過ぎると | 片付けが始まる(大寺宮地) |
屋台を移動させる虫沢田代 | 虫沢田代はテントを |
折りたたむ | 露店も跡片付け |
ビニールシートに収納箱を並べる | 弥勒寺は花飾りを抜く |
虫沢田代は屋台を移動し | 屋台小屋前へ |
武徳殿でも花飾りを抜く | 弥勒寺が最初に |
花傘を折り畳み | 屋上から抜いて |
下に下ろし | 武徳殿へ運び込む |
他の屋台でも | 花傘を下ろしていく(大寺宮地) |
片付け中でも屋台の | 中では囃子を演奏(弥勒寺) |
彫刻を外す弥勒寺 | 方向転換する虫沢田代 |
三ヶ村が屋台を移動し | 弥勒寺も協力します |
弥勒寺も屋台を移動 | 梃子棒で方向転換 |
屋台が揺れても演奏します | 屋台小屋に納める三ヶ村 |
大寺・宮地と虫沢・田代も | 屋台小屋に納めます |
最後に弥勒寺が | 屋台小屋に納め全ての |
屋台が収まりましたが | 弥勒寺はまだ囃子を続けます |
運搬の車が行き交います | 虫沢田代はシャッターを閉める |
弥勒寺は17時25分に | 演奏を終了 |
チョコバナナを頂きましたm(_ _)m | 弥勒寺も片付けを済ませ |
シャッターを閉めて | 手締めを行います |
私は19時35分にお宮を後にし | 弥勒寺多目的集会施設へ |
直会の準備をして | 乾杯 |
弥勒寺地区で配布する餅 | 22時に直会を終えました |
明日は9時から片付けがあり | 16時頃まで残払いが行われる |