山際
神社の紹介
「山際神社」の創立年代は不詳だが祭神は「素盞鳴尊」で、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「第六天社」と称し最初はこの土地の底地にあった。天正19年(1591年)11月には徳川家康から社領1石の御朱印地を賜り、これは明治初年に上知されるまで続けられた。江戸時代末期頃までは別当院として高座郡(現相模原市)磯部村の「仏像院」持ちであった。また、境内には「山王稲荷」を合祀し、寛政12年(1800年)再鋳の鐘を掛けていたという。
山際神社記録によると、寛文6年(1666年)に相模川の洪水にて社地・朱印地共に損地し社殿が流され、翌寛文7年(1667年)に少し高台の民有地に遷座し社殿を造った。大正元年(1912年)11月11日に神奈川県告示第105号を持って、神饌幣帛料供進の神社に指定された。大正11年(1922年)の4月には神官立会いの上で本殿の床下から御神体を取り出して改めて内宮に祀り、その時に「第六天社」と書かれた額面(縦150cm、横50cm)も取り出され、欅板材の裏面には「宝暦12年(1762年)8月当祭宮御神木」と記されている。その後、大正12年(1923年)9月の関東大震災により社地を損じて、大正14年(1925年)9月にはさらに高台の現在地へ移り現社殿を造営した。明治6年(1873年)7月(明治4年か?)には神仏分離政策に従い第六天社の社名を廃して「山際神社」と改称した。
社殿の北側には「厳島神社」・「稲荷神社」・「日枝神社」・「子上神社」など6基があり、道祖神は2基あるが安永6年(1777年)銘の古い道祖神は壊れてしまった。このほか天保14年(1843年)造立の地神塔、万延2年(1861年)造立の猿田彦大神がある。
明治維新後に官史の神社一般の取調べに際して明治初年頃からの伝承によると、御神体の像は佛体であるために暫くの間当所にある長福寺に預け、後に氏子一同が協議した結果御神体を社地に持ち帰って本殿の内陣内の床下に安置したという。
社号柱 | 第一鳥居 |
参道 | 小平自治会館 |
山際神社 | 鐘楼 |
第二鳥居 | 記念碑 |
手水舎 | 燈籠 |
拝殿 | 幣殿・本殿 |
石祠 | 石祠 |
記念碑 | 境内 |
厚木市立 山際児童館 |
囃子
神輿
例大祭
『風土記稿』によると第六天社の例祭日は8月8日であった。
山際神社の「チョーチンマツリ」は今も昔と変わらず9月15日に行う。戦中以降中断されていたが、平成13年(2001年)に60年ぶりに復活した。
前日に氏子総代6人が奉納された100個ほどのちょうしんを吊るす。昔は幟を立て、境内全部にちょうちんを吊るし、特に本殿にはおおきなものを吊るした。対岸の座間や瀬戸(相模原市)からもよく見えたという。
当日の10時15分から50分まで式典を行い、終了後に社殿で直会となる。露店は出ない。
山際の歴史
旧山際村は厚木市域の北部に位置し、村域は中津原台地にあり、概して平坦な土地で占められている。台地東縁の段丘崖下は沖積地で、東境を相模川が流れている。村域東側には八王子道が南北に貫いている。周辺は、東側は猿ヶ島村と相模川を隔てて高座郡新戸村(現相模原市)、南側は関口村、西側は下川入村、北側は上依知村に接している。
中世の頃の山際村に関する現存資料はなく、天正19年(1591年)の「第六天社への朱印状写」に「相模国中郡山際之郷内」と記されている。
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