金田かねだ

金田神社

  天保12年完成の『新編相模国風土記稿』に載る金田村の鎮守「船来田明神社(ふなきたみょうじんしゃ)」が現在の「金田神社」で、末社として「秋葉社」・「稲荷社」・「天満宮」が記されている。別当は「神禅寺」で、村内には同寺持ちの「御岳社」と、村持ちの「第六天社」も記載さ入れている。
  社名の「船来田」については『和名抄』に載る愛甲郡の郷名「船田」の遺名であろうとしているが、厚木村に同名の神社(松枝の「船来多神社」)があり、どちらが原社かは知られないとも記している。『風土記稿』の中にある『船喜田社縁起』によれば、仁治2年(1241年)2月に当時地頭であった「本間六郎左衛門重蓮」が、鎌倉幕府下の家人で牛久保用水(うしくぼようすい)の創始者「杉山將監弘政」に命じて創建されたという。翌仁治3年(1242年)には本殿の他に拝殿や廊中門・宝殿惣門、鐘楼等も増築したとある。
  神社創建の由来については嘉永2年(1849年)の『船田明神社略縁起』に記されており、これによると仁治元年(1240年)の創建の際に地頭本間重連が工事を起こした本間用水の現場で突然大地震が起き、同時に相模川の上流から流れ着いた小船の中から薬師如来瑠璃光佛が現れたという。そして無事に用水完成が成就したことから、この佛像を舟来田大明神と号したという。祭神は海神の「豊玉姫命」で、別当の神禅寺(船来山と号す 当山修験)で慶応4年(1868年)に廃寺となった。
  文政11年(1828年)3月には「御嶽権現」を脇社として祀り、他に石祠として享保6年(1721年)建立の「秋葉社」に併せて「天神社」を祀った。嘉永6年(1853年)には石造りの水鉢1個が奉納され、明治19年(1886年)8月には社号石標が造立された。明治初年には村内に所在していた「金毘羅社」や古くは村の鎮守であった「御嶽社」をはじめ(2社は合殿)、部落内に在った諸石祠等を境内に移し合祀した。これにより明治7年(1874年)に社名を現在の「金田神社」と改称して総鎮守となり、部落内の全住民が氏子となった。
  大正4年(1915年)には石灯篭7対が奉納され、昭和5年(1930年)7月には石造りの狛犬(高さ63cm)1対が奉納された。境内の舞台は昭和11年頃に建てたと言われる。本殿は昭和7年(1770年)の建立で、華やかな装飾を持つ入母屋(いりもや)造りの社殿である。現在の木造亜鉛板葺の社殿(拝殿は間口3間半・奥行9尺、幣殿は間口1間・奥行5尺、本殿は間口3間・奥行3間)は昭和41年(1966年)に建て替えたが、当時は寄付金を集めるのに苦労したという。東京や横浜に住む金田出身者の所まで、泊まりがけで特殊寄付集めに行ったという。なお、当神社の建立資料として棟札6枚程が所蔵されている。

2008.8.232008.8.23
金田神社社号柱
2008.8.232008.8.23
狛犬狛犬
2008.8.232008.8.23
鳥居手水舎
2008.8.232008.8.23
神社由緒
2008.8.232008.8.23
石階段燈籠
2008.8.232008.8.23
拝殿覆殿
2008.8.232008.8.23
末社神楽殿
2008.8.232008.8.23
石祠石祠
2008.8.232008.8.23
庚申塔境内
2008.8.232008.8.23
厚木市立 金田老人憩の家

囃子

  



神輿

  神輿は午後13時30分頃から各町内に繰り出し、神輿の渡御は上部・中部・東部の三自治会で行う。神輿の渡御は近年になって行うようになったもので昔はなかった。



例大祭

  『風土記稿』によると当社の例祭日は旧暦の6月20日であったが、その後は7月28日が当たり日で、近年は7月下旬の日曜日に行う。例祭には境内に合祀されている「御嶽社」・「金刀比羅社」も開帳し、この他に第六天社があったが、第六天を祭祀していた東集落(東部)で不幸が続いたため、第二次世界大戦後に旧東集落に復した。
  大祭当日9時頃から総代や役員が出て祭りの準備を行う。境内・社殿の清掃と飾り付け(提灯や紅白幕)、幟立て、供物の用意、舞台やテントの設営等を行う。
  10時に花火を合図に式が始まる。本殿において神官(水島氏)により祝詞の奏上・玉串の奉奠等の一連の神事が行われる。拝殿には神社総代・自治会・生産組合の代表者や警察・消防の関係者などが参列する。神事終了後にはお供えした御神酒で乾杯し、30分ほどで式は終了する。
  本殿の式のあと、当日町内に繰り出す子供神輿のお祓いが行われ、特に祝詞はなく神官が幣束によりお祓いを行い、各神輿に神札を納める。この後に総代たちは隣の老人憩いの家で神主を交えて直会を行う。
  18時30分から子供によるお囃子、舞踊会による演芸等の余興を行う。また、参道から石段の前まで20店近くの露天商が出る。昔の余興には厚木の歌舞伎役者、市川柿之助やゲンゴロウを呼んで歌舞伎や地芝居を催した。往時は石段脇に太い杉の木があり、これに舞台から太い綱を張ってゲンゴロウが綱渡りをするなど、翌朝になるまで盛大に行ったという。



金田の歴史

  旧金田村は厚木市域の東部に位置し、村域は中津原台地にあり、概して平坦な土地で占められているが、北西部に小段丘があって北西が一段高くなっている。村域南部は低湿地が広がり、東境には相模川、西境には中津川が流れ、この2川は村域最南端で合流している。西側を八王子道が南北に貫いている。周辺は、東側は相模川を隔てて高座郡下今泉村・上郷村・河原口村(現海老名市)、南側は厚木村、西側は中津川を隔てて妻田村・三田村、北側は下依知村に接している。
  依知は中世には鎌倉幕府の御家人であった本間氏が居住するするところであり、「ほんまのえち」・「相州本間依智」などの資料がある。金田村の妙純寺は本間氏の屋敷跡といわれており、建徳寺は本間氏の墓所がある菩提寺である。永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡金田」と記載され、『甲陽軍鑑』には永禄12年(1569年)の武田氏相州侵攻の時の記事に「かね田のうしろ谷の上」という記載がある。
  旧集落は低位の段丘上にあり、村域の北東から南部の低地が水田で、北西の台地上が畑であった。下依知の伝承では、下依知分の台地には金田村の耕作地が多かったという。『風土記稿』では小名として「中里」・「東村」を載せ、民俗調査(講)ではこの他に「上宿」・「中宿」・「下宿」の集落名が採集されているが、現在では「上部」・「中部」・「東部」が使われている。
  近世の支配は幕府・旗本領等の2給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は86戸、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は108戸であった。明治22年(1889年)に下依知村・中依知村・関口村・山際村・上依知村・猿ヶ島村と合併して依知村大字金田となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字金田となる。台地上では宅地化が進み、南部の低地は事業所等の進出が盛んである。


戻る(厚木市の祭礼)