松枝
船喜多神社の紹介
「船喜多神社」の創建年代については不詳だが、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「東光寺」持ちの「船喜多神社」を厚木村の惣鎮守とし、末社に「稲荷社」3社と「疱瘡神」が記載されている。祭神は「大巳貴命」とある。本殿の社頭に掛けられている鰐口(わにぐち)は銘文によると慶長12年(1607年)に奉納されたもので、寛保元年(1741年)に改鋳し口径は33cmある。慶安2年(1649年)には社領五石五斗の御朱印を賜わり、天和3年(1683年)鋳造の鐘があった。「倭名妙」相模国愛甲郡の郷名中に「舟田郷」とあり、当社は郷内の鎮守社として創建されたのであろう。また、本殿内には木製立書の扁額(縦57cm、巾33cm)があり、中央には「船喜多大明神」、「享保7年12月29日」、「願主 大久保市兵衛」とあり、享保7年(1722年)のものであることが分かる。
厚木村の現存する最古の絵図は寛文10年(1670年)のものがあり、この絵図は厚木・金田・妻田の三ヶ村が小鮎川と中津川を境とする村境界を決定する際に用いられたもので、厚木村と妻田村は村内の民家や社寺が細かに描かれている。神社は「船喜田明神」・「牛頭天王社」・「熊野神社」が記されており、天王の森すなわち天王森がうっそうと描かれ、この図を見る限りでは社叢の社はかなり古いものと見られる。この絵図では厚木が上・中・下に分けられ、上厚木村・中厚木村・下厚木村の名称として三部落の構成になっており、長福寺も既に現在地に描かれている。近世を通じて後期と異なる所は町の中央の用水が描かれていない点で、この用水はこの年代頃から掘り始められたのである。
宿場町として発達しつつある厚木村は全町の民家が連なり町屋形態を作っており、間もなく厚木上町・中町・下町の名称となる。江戸幕府支配が三給で支配関係上3人の名主がいて、その後元禄11年(1698年)に牧野備前守の支配となり上・中・下は統一となったが、以前通り3人の名主の村役人が置かれこの制度は明治維新まで続く。村内3つの神社はそれぞれの氏子を持っており船喜田明神社は総鎮守であったが、横町や松原部落の形成によりこの二町を上町に含めて幕末に及ぶ。熊野神社は下町のみの鎮守社で、牛頭天王社の氏子は上町と仲町の住民であったが、後に上町分より天王町が新しく分離して生まれた(氏子はそのまま幕末まで続く)。厚木村上町より天王町が分離するのは寛延2年(1749)から寛延4年(1751年)の間で、それ以前は天王森を通称としていた。この頃の厚木村は野州烏山の大久保佐渡守の支配下に置かれ、牛頭天王社の北側に「厚木役所(お陣屋)」が設置され、相模国内烏山領の業務が行われていた。また、徳川時代には別当として「東光寺」があり、元禄の水帳によれば東光寺は除地・名請地合わせて一町七反五畝七歩を有し、これは厚木村の社寺領中最大の数字である。東光寺は明治初期に廃寺となり、現在は歴代住職の墓地のみが残っている。
船喜多神社は船喜多社氏子所蔵文書によると明治6年(1873年)7月に厚木神社合祀に関する届出を提出し、翌明治7年(1874年)に厚木神社へ合祀されたが、その後に地元住民から遷座する様に要請があったため旧社地へ再び戻った。明治初年頃の当社境内の見取り図によると、本図の拝殿と本殿は明治18年(1885年)12月18日に東光寺の失火(東光寺は廃寺となる)により全焼し、鐘堂も焼失した。西側にあった約4坪程の薬師堂も焼失したが、跡地には木造切妻形亜鉛板葺の神楽殿(間口3間、奥行2間)が建立され、この北側には石祠が3基程祀られている。大門は嘉永年代(1848〜1854年)に建てられているが今は失われ、石鳥居は大正12年(1923年)12月9日の震災にて破損した。明治23年(1890年)には旧社地に社殿が再建され、本殿(間口1間半、奥行1間半)は木造流造の亜鉛鉄板葺で拝殿も同時に造営されたが、明治31年(1898年)の大暴風によって破損し取り除かれた。
鳥居 | 手水舎 |
日露戦役忠魂碑 | |
神楽殿 | 燈籠 |
社殿 | 大六天戝・稲荷弁戝天 |
境内 |
囃子
神輿
例大祭
大正以前の例祭日は9月29日であったが、昔は9月19日となり、現在は9月中旬の土曜日(日曜日?)である。
大祭当日の8時に花火が打ち上がり、8時30分から11時に祭典委員により、舞台作り、社殿の清掃、供物の準備、受付用および来客用テント設営の準備が行われる。
14時になると神官により神事が始まり、元町内各種役員代表者および松枝町、東町の氏子代表が参拝する。18時30分に再び花火が打ち上げられ祭典が開始される。子供太鼓連を皮切りに育成会、老人会、あしたば会、婦人会ほか有志等の演芸が行われ、21時に終了する。
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