厚木
厚木神社
「厚木神社」は明治維新後の改称名で、一般には「天王様」と呼称されてきた。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると厚木村の鎮守を「智音寺」持ちの「牛頭天王社」とし、末社には「稲荷社」・「八幡社」・「道了権現社」・「秋葉社」・「天神社」・「淡島社」・「浅間社」があった。また、元文元年(1736年)再鋳の鐘を掛けており、元和4年(1618年)再建の棟札を蔵していた。厚木村では東光寺が別当であった「船喜田神社」が総鎮守となっており、「熊野堂」が別当であった「熊野三社」も鎮守と記載されている。『風土記稿』に載るこの他の神社・小祠には村持ちの「天王社」・「天神社」・「姥神社」、熊野堂持ちの「山王社」・「弁天社」、東光寺持ちの「第六天社」、「神明社」がある。
なお、牛頭天王社の創建については明治5年(1872年)の由緒書に記されているが、平安時代の創建・同末期の遷座・那須与市の伝説等は付会された伝承で史実ではない。
慶応3年(1867年)11月29日の夜に上町の北の端の民家から出火があり、北の強風が吹いていたため忽ち南へと延焼し、厚木宿の約3分の2を類焼した。この頃の社地はうっそうたる森林をなし10数本に及ぶ欅の古木が境内を埋めていたため、町の中央にある牛頭天王社も恐らく類焼したものと考えられる。この年の10月には京に於いて徳川慶喜が天王へ大政奉還を行い、政治の中心は天皇の手に移った。明けて慶応4年(1868年)9月に年号が明治と改められ、これより年号一元制となる。
明治4年(1871年)1月に上知令が発布され社寺の朱印地(江戸時代に朱印状によって所有を認められたり下付されたりした寺社領)や除地(江戸時代に領主により年貢免除の特権を与えられた土地)は新政府へ上知(土地を没収すること)されたが、後に社寺の土地は払い下げを受けて元のままに使用されるに至った。神仏分離令の発布により神社の支配権をもっていた別当寺院の組織は解体されることとなり、牛頭天王社の別当「智音寺(古義真言宗)」の住職は還俗(一度出家した者がもとの俗人に戻ること)して植松臻と称し天王社の神官となった。
明治5年(1872年)4月に神官植松臻は足柄県庁に願書を提出し、社号改称と社格の申請を行った。神社を郷社にするためには郷内の神社を統合する必要があり、「船喜多神社」の神官厚木信昌(元別当東光寺・古義真言宗住職)と「熊野神社」の神官福原正胤(元熊野神社修験)の協力と全町域の氏子登録を解決したものと見られ、明治6年(1873年)7月に旧来の厚木村鎮守3社の1つ「牛頭天王社」に「船喜多神社」や「熊野神社」などを合祀し「郷社厚木神社」として発足した。しかし、合祀されたこの2社はそれぞれの地区の旧氏子の要望によって、明治の中頃から再び旧社に戻されており、船喜多神社(祭礼日9月1日)は本町・元町・松枝町が、熊野神社(祭礼日9月9日)は旭町が氏子として祭祀している。
烏有に帰した社殿がいつ再建されたかは明らかではないが、暫く仮社殿が置かれていたものと考えられる。その後に神社は再建されたが(本殿の写真は現存)、明治30年(1897年)2月10日に起きた厚木町の大火により類焼した。古老談によるとこの焼失した本殿は総欅造りの八棟で正殿正面の柱に上り竜・下り竜の彫刻があり、腰扉板には十二支、その裏に朝鮮武士の馬上姿、拝殿の扉には数匹の雀がそれぞれ彫刻されていたという。明治30年(1897年)2月の回禄後は打ち続く大火のために神社の再建も遅々として進まず、ようやく建設された社殿は本殿と拝殿を兼ねたもので、切妻の簡易な仮殿に過ぎなかった。
厚木神社の境内の面積は東西三十二間・南北二十一間の六百七十坪(皇国地誌)で、明治10年(1877年)作成になる新地図によると厚木町二五九四番地二反二畝十五歩とあり、南角の処も管地になっており二五九五番地一畝十五歩で、古くはここに鐘楼があったらしい。境内に所在していた建物は厚木神社の前期の本殿とその前に拝殿があり、向かって奥(南)に社務所も建築されていた。旧植松神官の後に足立原賜氏が神官となりこの社務所に居住していたが、厚木の大火後数年にして神官を辞し、明治35年(1902年)頃には林神社の神官水島斉宮事忠次郎が厚木神社の神官を兼務していた。水島氏は近世からの神職で『風土記林村の条』に「神職水島斉宮 吉田家の配下なり」とある。
大正10年(1921年)11月に厚木神社の本殿の新築が始まった。この年に神社裏の南側が大きく埋め立てられ、これによって神社裏も河原へ向かって敷地が拡大した(相模川河川敷)。境内の南東隅に建てられた社務所には神官は存在せず、この建物に東京の宮大工大熊忠一が居住して社殿工事に掛かった。大正12年(1923年)の秋には総欅造りの新本殿が八分通り完成に向けて進んでおり、囲りには工事用の上屋とよしずが掛けられていた。しかるに、同年9月1日に突如起きた関東大震災により、社殿は破壊しなかったが厚木町の中心部は火の海と化し、第四部消防組の蒸気消防ポンプの必死の消火もむなしく社殿は悉く烏有に帰して終った。石造物は倒壊は損し、天王森と呼ばれた多くの古木もまた焼失した。神社跡はとりあえず御神体を取り上げて小箱に納め、約半坪程の仮殿に安置し(この建物は現在、旧智音寺に伝承那須与一の供養塔が納められている)、大正14年(1925年)に切妻型トタン葺の仮社殿を建てて本殿を含む拝殿として建立された。
その翌大正15年(1926年)に厚木町全域の氏子の要望もあり、全町各戸より社殿建設に関する寄付金を得て新築工事を起こした。全戸数約八割の931軒より総寄付金額29,482円を得て、建設に関するあらゆる費用に充当した。厚木神社再興の新築工事には、その材料の大部分が東京代々木に大正10年に建設された明治神宮に使用の桧材の残ったものを払い下げたという。この工事には厚木町内住の大工組合(太子講組合)が引き受け、その代表は旭町住の大元事の村治元次郎氏であり、全町の大工その他職人の総動員という形で工事が進められた。その宮殿建築に関しては八王子の宮大工小町屋と厚木町松枝町住の河内福賢氏の設計や工事進行のアドバイスを受けたという(厚木神社寄附者名簿)。
本殿・幣殿・拝殿を含む社殿は昭和2年(1927年)に落成し、その7月には全町を挙げての盛況であった。神社殿新築に際して仮社殿を南側に移転をしてこれを神楽殿に使用し、石鳥居は大震災に倒壊したが社殿新築と同時に御影石の大鳥居が建立された。その囲りの玉垣は町内の有志により後に寄付者名入りの御影石の石柱をまわし、社号柱も御影石のものである。昭和5年(1930年)5月には御影石の狛犬一対奉納の完成式が挙行され、夜は二十五座の神代神楽奉納で賑わった。同年の3月吉日にも仲町に居住していた高橋敏三・難波浜三郎等により石鳥居近くに狛犬一対が奉納されている。また、昭和17年(1943年)10月1日には石灯籠一対が拝殿近くに奉納建設されている。
昭和20年(1945年)8月15日をもって戦争は終結し、これより暫くは米英を始めとする連合国軍の占領下に入る。日本を戦争に巻き込んだ一つと見られる神社信仰は国の手を離れて国民の手に帰り、その自由信仰の道に入った。強制神社神道と称された国民行事も強制は廃止を命ぜられ、正月元日の四方拝などの神社の集いも禁止、学校教育の生徒への神社参拝の禁止、明治初期に定められた神格完全廃止とこれに伴う供進使や幣帛料下賜、伊勢神宮の大麻暦や神札、鎮守社の参拝と神札の配布等も廃止されるに至った。厚木神社の社格の郷社名も剥奪され、社頭に建っていた社号柱の文字の内、「郷社」の文字が消えて「厚木神社」のみに刻み替えられた。
厚木神社 | 神社由緒 |
社号柱 | 鳥居 |
手水舎 | 燈籠 |
拝殿 | 本殿・幣殿 |
稲荷神社 | 水神宮 |
神楽殿 | |
狛犬 | 境内 |
例大祭
江戸時代の厚木の天王祭りに関しての詳細な記事を記した文献・文書等は現存しないが、明治5年(1872年)の「厚木神社鎮守認定願ならびに由緒書」や伝承等を参考として、明治5年改暦以前の祭礼について記述する。
毎年6月5日の宵宮を皮切りに、明けて6日13時頃より社内において献饌式が挙行され、神官が祝詞を奏上する。氏子総代が数人、神社の北隣にあった烏山厚木市役所から役人が数人、裃にて数名参列する。式が終ると御神体を神輿に移して浜垢離行事の行列が出発し、先頭には行道獅子頭が対二体、続いて大久保家々紋を記した大提灯が壱対、露払い人夫が続く。その後ろは神官に続いて神輿、藩役人、村役人、氏子総代と続いた。神輿を担ぐ人は白衣を着してわらじ履き(人数は不明)で、神社の鳥居を出ると大通りを右へ、また右へ折れてお陣屋前を通って相模川に入る。神輿は河中に入って激しく揺れ、村内の安全と災厄消除の為の禊の行事を行う。水中渡御が終った神輿は同じ道を大通りに出ると町内を一巡し、その際は仲町(幸町)の告原家前に休憩して、その年の年番町内の御仮屋(行殿)に入る。
厚木宿には中世末より続いた「二七の市」が毎月開かれているが、天王社の祭典にも「高市」が開かれ、二七の市に出店する以外の露店が多く並ぶ。神社境内から大通り両側に200mの商家の店前に開かれ、関東一円に渡る露天商が集まる大祭の一つであった。6月12日の祭典最後の日には還御式が挙行され、神輿の行列は申の下刻(16時)に御仮殿(行殿)を出発し、日暮れに神社へ帰る。1週間の長い祭礼中は16時頃から近郷近在の人出で賑わい、神社の神楽殿では奉納神楽(愛甲の萩原氏)が神式により上演し、これは神話を芸題とした「神代神楽」であった。牛頭天王社は別当智音寺(現旭町2丁目)の支配に置かれ、役僧としてこの祭典に参加したと見られるが明らかではない。祝詞を述べる神官は横町に在住した神明社の神官「若杉大和」が行ったと見られる。
明治5年(1872年)に太陰暦(旧暦)が太陽暦(新暦)に変わってからは天王祭りは6月が7月と改められ、始めは旧例により7月6日より7日間であったが、明治10年頃より正祭は7月15日より3日間と短縮された。7月14日は宵宮(夜宮とも称す)で町内各戸は祭典の提灯を掲げて、夜宮参りの人達で神社境内は賑わった。15日が正祭の水中渡御、16日に神輿は年番町内の仮殿に安置され、17日が還御となる。この3日間は午后から神社境内には小屋掛けの見世物や露天商(香具師)の店が多く並び、神社前の大通りにも各商店の店先の土間に露店が店を並べて、古くはこれを高市と呼んだ。
昭和16年(1941年)11月8日に日本は遂に米英に対して宣戦布告をして大きな戦争に発展し、この8日を翌年より大詔奉戴日と称して毎月8日に神社に町の有志が集まり戦勝祈願の行事が終戦の月まで続いた。神社の祭典も3日間より2日間に短縮して7月15,16日となったが、毎年欠くことなく終戦の年である昭和20年(1945年)の7月15,16日も祭典は挙行された。
昭和49年(1974年)6月19日に神社の祭典日に関する変更を厚木地区全町の自治会長より神社の氏子総代に申込があり、3時間余りを費やした協議の結果7月中頃の土・日曜日に変更された。永年に亘った大祭日の変更のため議論相半ばしてその終結に手間取ったが、時代の変化もさることながらよりよく大祭を施行するためには、町民が年一度のお祭りをゆとりある中に奉仕できるようにするための祭典日変更であった。その年の祭典日は間近に迫っていたため、1日繰り上げて7月13日(土)を夜宮、14日(日)と15日(月)を大祭日とし、翌年度から7月中旬(第2または第3)の土・日曜日を祭典日として挙行されるようになった。
昭和50年代には「厚木ふるさとまつり」として厚木神社のまつりに行政が関与して復活し、歩行者天国も実施され、テコマイ・山車の運行・神輿渡御も行われるようになったが、昔日の賑わいを取り戻すことはできなかった。厚木神社の祭典を「厚木ふるさとまつり」と銘打ったのは昭和54年7月からで、神奈川県のふるさとまつりの一環としての行事でもあった。前年までは「東部歩行者天国」と呼ばれ、夏祭りを合わせて行っていたものである。
現在は厚木神社の祭りとなっており、世話人は旧厚木町自治会である松江町・元町・弁天町・東町・天王町・仲北・西仲・大手北・大手南・大手西・旭町から出る。土曜日は神楽殿で民謡、手品、歌謡ショーなどが、日曜日には御神楽が行われる。
囃子
●元町・・・元町太鼓
「元町太鼓」は「元町太鼓保存会」によって伝承されており、明治43年(1910年)に花車屋台、大太鼓や締太鼓などを購入したときに「元町おはやし連」が誕生した。厚木神社の祭礼年番になった大正5年に太鼓連が発足し、昭和51年(1976年)には「稲毛ばやし」継承のために保存会を結成した。
囃子は「大太鼓1」・「締太鼓2」・「鉦1」で構成され、「四丁目」・「ばかばやし」・「通りばやし」・「はや」がある。厚木神社祭礼では屋台で地区内を巡行し、船喜多神社祭礼では境内で演奏される。
●幸町・・・厚木ばやし
「厚木ばやし」は「厚木ばやし保存会」によって伝承されており、明治初年に東京都稲毛から来た人によって伝えられたという。囃子は「大太鼓1」・「締太鼓4」・「鉦1」・「笛」で構成され、「打込み」・「早」・「鎌倉」・「しちょうめ」・「ばかばやし」・「通りばやし(独自の囃子)」があり、平成13年(2001年)からは「ばかばやし」に会わせて「ひょっとこ」踊りを行う。
厚木神社祭礼では車に屋台をのせて巡行し、宮出しのときは境内に車を止めて演奏する。また、熊野神社の例祭にも演奏する。
●寿町1〜3丁目・・・大手西稲毛囃子
「大手西稲毛囃子」は「大手西いなげ囃子保存育成会」によって伝承されており、川崎市稲毛神社の「稲毛囃子」系統である。明治17年(1884年)に川崎から稲毛囃子の師匠が厚木の旭町に来て、おもに旭町・中町・元町に伝授し、終戦後の厚木神社の祭礼のときに大手町が加わった。
囃子は「大太鼓1」・「締太鼓3」・「笛」で構成され、「はや」・「四丁目」・「鎌倉」・「通り囃子」があり、「四丁目」では踊りが入る。「通り囃子」で踊りを演じるときは、「おかめ」・「ひょっとこ」の両者で演じる。厚木神社祭礼で演奏される。
●中町・・・西仲はやし
「西仲はやし」は「西仲はやし連」によって伝承されており、昭和末期か平成初期あたりから行われている。囃子は「稲毛囃子」で、厚木神社祭礼で演奏される。
構成は「オオド1」・「ツケ4」・「笛」で、曲目は「打込」―「はや」―「乱びょうし」―「はや」―「乱拍子・かまくら」―「四丁目」―「はや」―「乱びょうし・おかざき・しょうでん」である。
山車
明治5年(1872年)の由緒書や伝承等を参考とすると、厚木宿の大通りの中央には用水が掘られており(これを「前堀」と呼んでいた)、この前堀の両側に山鉾が36本立てられていたという。由緒書には他に山車の出たことも記されているが、山車の形や数は知ることができない。
大正3年(1914年)の日独戦争(第一次世界大戦)に、日本は僅かな参戦で軍需品の注文が殺到し明治以来の好況を呈し、大正4年(1915年)には大正天皇即位の御大典が挙行された。厚木神社の祭典もこれに呼応して盛大な行事となり、全町挙げての大祭りであった。宮元の天王町も上町・仲町・下町と共に山車を繰り出し、各町内は挙って揃いの祭り浴衣を染めている。山車は神輿が神社を出御する際に鳥居前の大通りに勢揃いし、各山車の先頭には芸妓のあでやかな手古舞(山車や御輿を先導する舞)姿があり、各町内の子供達が揃浴衣で綱を曳く。
山車の上には囃子連の叩く「稲城ばやし」は、明治の中頃に川崎在の稲城ばやしの古老を招いて指導を受けたといわれ、厚木町独特のものである。天皇様のお祭りが近いという1ヶ月位前からこの連中は毎夜その練習に余念がなく、夏の夜風に送られて川面を流れくる囃子の響きは天王祭りを待つ子供達の心をうきうきさせ、指折り数えてどんなに待ったであろうか。この天王社の祭りは厚木町のみでなく、町を取り巻く多くの近郷近在の老幼男女に働く意欲を与えていた。神輿出御の時間になると神社付近の河原も大通りも人人、人で埋め尽くされる盛況で、集まった数台の山車上の囃子競演は素晴らしかった。
昭和6年(1931年)金解禁や満州事変の勃発により昭和12年(1937年)頃に掛けては日本経済の恐慌時代といわれ、昭和10年6月には瀬谷銀行の閉鎖を見る大不況の時代であった。しかし、厚木神社の祭典は休むことなく毎年盛況を呈して、近郷近在の人達の参詣で3日間賑わっていた。年番町内では山車を引き出し、揃いの祭用浴衣をつくっている。当時、天王町は宮元と称して年番町内の外に毎年屋台を引き出し、芸妓の手踊りその他を上演していた。また、屋台の後には「底抜け屋台」と称して木枠の周りによしずを廻し、底はなく四つ車を付け、その中で祭囃子が演ぜられていた。屋台を曳く時にこの囃子の賑やかな太鼓・笛が演ぜられて、町中はこれ等を見る人達で午后より夜にかけて午后10時過ぎまでも賑わった。
昭和21年(1946年)には終戦後初の祭典が挙行され、両日とも晴天で暑さは厳しかったが人出は多かった。本年は辯天町の年番で子供神輿と山車も出動して盛大な祭りが実施された。昭和22年(1947)でも山車は出ており、仲町囃子太鼓等の催しものもあった。昭和29年の第1日目の午後からは五基の山車が街路を練り歩いている。
昭和52年7月16、17日には歩行者天国が大通りに行われ、翌日の新聞は15万人の人出で賑わったと報じている。厚木地区の元町に唯一残っている山車が戦後に2回目20数年ぶりで曳き出された。元町に保存されている山車はその資料によると、明治43年(1910年)6月に現在の寒川町宮山から「花車屋台一基」・「人形三基」・「太鼓組三個」を六十円で買ったとある。本年は元町が年番で、山車の人形は「スサノヲの命」であった。
神輿
明治5年(1872年)の由緒書に記述されている伝承の中に正徳年中の事件がある。江戸中期すでに盛大な「天王祭り」が挙行されていたことを知ることができる。祭典の期日は毎年6月6日より12日までの7日間で、6日の前日の5日夜は宵宮で賑わっている。
正徳4年(1714年)6月には天王社の正祭が盛大に挙行され、6日の午後に神輿が相模川中に入り禊(身を氷水、滝、川や海で洗い清めること)の行事が行われた。これは水中渡御または浜垢離とも云う。ところが、行事中に神輿の扉が開いて、過って御神体が河の中に落ち行方不明となって終った。翌正徳5年(1715年)5月に厚木村仲町の告原伊兵衛の霊夢により、その裏手の相模川河中に所在することが判明し、漁夫に依頼して天王社のの丸石を探し出し、伊兵衛方では御神体であろうとして庭に木臼を出しその上に麦藁を敷いて安置した。同年6月の大祭に際して御神体の還座敷を挙行したという。この行事の伝承は現在も続いており、毎年厚木神社の祭礼にはこの場所で神輿が休憩することを例式としている。
昭和2年には新社殿落成に際しこの社殿に似合う神輿の新調が進められ、社殿新築寄附の一割二千数百円をもって河内福賢大工の手になる現存の神輿が、昭和9年(1934年)7月に皇太子御降誕記念の意味も含めて新調された。次いで昭和12年(1935年)12月には見越しの宝蔵庫が東南隅に追加建設されている。
昭和11年(1936年)の厚木神社の祭祀記録によると次の様な行事が行われていたらしい。7月上旬に神符を氏子一般に配布し、7月14日(宵宮)は18時頃から社殿内で神官による「移霊祭(御霊うつし)」の行事があり、氏子総代が参列し神輿に御霊を移す。7/15日(例祭第1日目)の9時に供進使・神官・氏子総代が参列して祭典儀式を挙行し、14時に神輿が出御する。相模川に神輿が入る浜ごり行事の後に、予定の順路に従い町中を神輿が練り歩いて、年番町内に安置された仮殿に納まる。行列には先頭に天狗面をかぶった猿田彦命・神官・氏子総代代表・太鼓・神輿が続き、後ろより氏子総代・年番町内の世話人など多数参加する。7/16(祭礼第二日)は仮奉安殿安置の神輿前で神官による中祭の祝詞奉典が行われ、氏子総代や年番町内の世話人が参列する。7/17(最終日)の16時頃より神輿還御の儀式があり、神輿は仮殿を出て町内を一巡し、17時過ぎに神社に還御をする。
昭和21年(1946年)7月15,16日の終戦後初の祭典では神輿が警察署へ暴れ込んだという事件が起き、当時の新聞記事が「不良狩を恨んで云々」と記したことに関して一読者の投書記事があった。それによると、神輿は最高潮で練ってきた波がそのまま警察に入ってしまい、先頭の方で多少のイザコザがありそのまま波は引き返したが、その瞬間に発砲(警察側)したのである。その一弾が神輿の金鵄を傷つけたので、青年は激怒して引き返し警察に再び入ったのである。この事件に関しては17日に神社氏子総代・町会代表・青年会代表等が警察に出頭し、陳謝することにより事件は解決を見たが、その後の祭典で神輿が厚木税務署に飛び込むという事件もあった。
昭和30年(1955年)7月15日には市制後初めての祭礼がこの日繰り広げられた。市と同じ名称の神社名ではあるが市の神社ではなく、厚木市厚木地区の鎮守社であり、旧厚木町も大きく躍進して15町内会生まれてくる。戦後の神輿は神社の大神輿の他に子供神輿が3台あったが、その頃には子供神輿も10数台に数を増した。14日(宵宮)の夕方には厚木神社境内に子供神輿が次々と集まって御霊入れの行事に入り、御霊入れの終った神輿は次々と各自町内の御神酒所へ帰っていく。15日(正祭)には神社の神輿は牛車による行道が行われる。かつて警察署や税務署へ担ぎ込まれた事件があってから大神輿は牛車挽きとなり、16日の還御時の鳥居潜りの時のみ年番町内の役員等によって境内に担ぎ入れるのである。この時の奉納上演は市川柿之助の指導による古典歌舞伎で、大通りの天王町・本町・仲町・などは大型トラックを利用した移動舞台で集まった人達を楽しませていた。
昭和36年(1961年)7月15日にも大神輿は牛車挽きで、子供神輿は10数台出動している。この他には旭町の樽神輿や、厚木芸者60人が揃いのハッピ姿にもろ肌脱ぎで担いだ芸者神輿が人の眼に異彩を放った。
昭和38年(1963年)7月15日の祭典は、本年に中学通りの道路拡張と共同ビル建設で盛り上がらなかった。牛車の神輿が裏通りを進み、子供神輿がその後に続く。露店の数も少なく例年にない寂しさで、この頃から自動車の増加による道路交通事情の悪化で祭典は激変し、山車の運行と神輿渡御が出来なくなり、相模川の水質汚染も加わって神輿が相模川に入る行事も中止された。また、祭りを支えた旧来の商店街の斜陽化もあいまって、オテンノーサンの祭りは急速に衰退していった。
昭和50年(1975年)7月の夏祭りからは鮎まつりの中央通りや小田急通りの「歩行者天国」についで、厚木神社の祭典日のみ旧本町・天王町・仲町・旭町をつなぐ大通りが特別に「歩行者天国」となり(後に厚木市はこれに「ふるさとまつり」と銘打つ)、久しぶりに大神輿の渡御が実施されるようになった。昭和51年(1976年)7月17,18日には本格的な夏の日差しが照りつける夏祭りが展開され、地元商店街や市役所の若い人達が大神輿を担いで練り歩き27年振りの賑わいとなった。
昭和53年(1978年)7月15,16日はおりよく昔の祭典日に当たって両日とも快晴となり、神社前の大通りの歩行者天国では大小の神輿の渡御で賑わった。神社の大神輿が復活して4年目で、厚木地区内の子供神輿が数基、旭町・仲町・西町・大手・天王・弁天・元町の他、本町も年番を記念して新調されて?東町神輿も加わった。この他にも近郷の金田・下古沢・上戸田からの子供神輿も加わって、神輿のオンパレードが展開されて大通りに夏祭りが再現した。(広報あつぎから)
ここで大神輿について一言付け加えると、昔の天王祭りの趣旨は郷土の住民の無病息災・町内安全・国家安穏などの祈念を主とするもので、神輿を担ぐ人達は白衣を着し、水中渡御という行事に加わったのである。神輿が通行する際は二階等の高い所から見下る様に眺めることを禁じていた。神輿の担ぎ方も天王様(スサノオノ命)として激しい揺れを見せるもので、山王社の神輿の様に小刻みに引手形の音の出る金具はついていない。
現在の神輿担ぎは「厚神会」と呼ぶ会の若者によって担がれ、白衣も今は印半天に変わり頭に鉢巻きをする威勢よさを見せている。各地から集まってくる神輿担ぎの若者がそれぞれの印半天を着して参加するのを見る。古式行事の内、旧仲町の平井家前の神輿休憩は行っているが、相模川へ入る水中渡御も行われず、年番町内は増加し仮屋もなく家の軒先等を利用して神輿の泊まりが行われている。宵宮に厚木神社の御霊と各町内の御霊を神輿(子供神輿は16時頃に、大人神輿は19時から行う)に入れる。歩行者天国は行われず神輿渡御も日曜日の1日間だけで、大人神輿には天狗と神官、氏子総代が一緒に歩く。日曜日の夕方に子供神輿の御霊を神輿から神社へ戻し、大人神輿は19時半過ぎ頃に御霊を神社に納める。
厚木の歴史
旧厚木村は厚木市域の東部に位置し、村域は平坦な相模平野にある。東側は相模川が南流し、北側には小鮎川が東流して相模川に合流している。相模川は上流・下流との水運に利用され、厚木村には河岸場があり、また、渡船5艘を置く渡船場があった。厚木には矢倉沢往還・八王子道・甲州道など主要な道が多く集まり、また、厚木を起点として周辺の村々に通じる道があった。村域の西側一帯の低地が耕地で、ほとんどが水田であった。周辺は、東側は相模川を隔てて高座郡中新田村・河原口村(現海老名市)、南側は岡田村、西側は恩名村・戸村村、北側は金田村・妻田村に接している。
厚木村の中世資料の初見は建武5年(1338年)の「夢窓疎石書状」に記載されている「相州厚木郷」で、それ以降も多くの文献に現れ、「厚木郷半分」・「厚木郷下方」・「下厚木郷」などの記載が見られる。近世前期の寛文12年(1672年)の「厚木・妻田・金田三か村河原論裁許絵図」には「上厚木村・中厚木村・下厚木村」と書かれている。同年の「厚木・妻田・金田三か村河原裁許絵図裏書」には「厚木町」の記載が見られ、町制としての制度が施行される明治22年(1889年)まで多くの文献に見られる。
旧集落は村域の東側の相模川沿いと西側の小鮎川沿いの自然堤防上にあり、特に相模川沿いは八王子道・矢倉沢往還の両側に商家・旅籠を中心とした家並みが立ち並んだ宿場町であった。『風土記稿』には小名として「上町」・「天王町」・「下町」・「松原」を載せ、『皇国地誌』では「上町」・「天王町」・「仲町」・「下町」・「横町」・「松原」の集落名を挙げ、さらにこれらの中の「小区」としていくつかの集落名を列挙している。民俗調査では「元町」・「本町」・「天王町」・「仲町」・「旭町」・「松枝町」が調査されている。なお、明治元年の「御年貢皆済取立帳」では「三組厚木町」として「上組・中組・下組」を記載しているが、これらの組は当時の行政的組織であったものと考えられている。
近世の支配は幕府・旗本・藩領等と代わり、中期以降は下野国烏山藩領となる。明治22年(1889年)には町村制を施行し、明治後期には耕地整理が実施されている。昭和30年(1955年)の町村合併により厚木市大字厚木となり、昭和30年以降は小田急線本厚木駅を中心に急速に宅地化が進んだ。昭和40年(1965年)7月に初めて住居表示が実施され、現在まで松枝・元町・寿町・水引・厚木町・中町・栄町・田村町・幸町・泉町・旭町・吾妻町の新町名が実施されている。
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元号 | 西暦 | 祭礼日 | 記載元 | 備考 | |
享保13 | 1728 | 6/6 | 牛頭天王御祭礼、毎年六月六日執行仕候 | 厚木村差出明細帳書抜 | 厚木村より領主へ差し出す |
安永3 | 1774 | 6/4〜6 | 天王祭礼毎年六月四日ヨリ六日迄 | 鳥山藩資料 | |
寛政3 | 1791 | 6/8 | 晩方、厚木村天王江参詣 | 長野宗碩の日記 (妻田村の医師) | |
文政3 | 1820 | 6/6 | 天王江子供参詣 | ||
天保12? | 1841 | 6/6 | 例祭六月六日 | 新編相模国風土記稿 | 祭礼開始日か? |
文久3 | 1863 | 6/6〜12 | 遠近之老若 群集 当所之利潤格別之儀 | 菓子商売高等書留 | 例祭は7日間 |
明治17 | 1884 | 7/15 | 星野家の農業日誌 (金田村の農家) | ||
明治18 | 1885 | 7/23 | 厚木牛頭天王御祭礼、今吉休日、但祭日ハ雨天ニ付日ノベ | 明治十八歳日記 | |
明治19 | 1886 | 7/13 | 厚木牛頭天王祭典 | 旧称の牛頭天王と記されている | |
明治20 | 1887 | 7/13 | |||
明治23 | 1890 | 7/13 | |||
明治25 | 1892 | 7/17〜19 | 厚木天王祭三日間、十七日ヨリ十九日迄 | 例祭は3日間 | |
明治28 | 1895 | 7/18 | 此度厚木天王祭ニ行 | 明治25年同様7/17〜19か? | |
明治29 | 1896 | 7/16 | 厚木天王祭ニ付休ス | ||
明治30 | 1897 | 7/16 | |||
明治31 | 1898 | 7/16 | 厚木天王祭休暇 | ||
明治34 | 1901 | 7/18〜20 | 本日より厚木天王祭三日間 | ||
明治35 | 1902 | 7/16〜18 | 后、下女ハヤ厚木天王祭ヘ行 | ||
明治36 | 1903 | 7/16 | |||
明治37 | 1904 | 8/1 | |||
明治38 | 1905 | 7/18? | 厚木天王祭ニ行、藤吾七時頃帰リ | ||
明治39 | 1906 | 7/18〜20 | 厚木天王祭十八、十九、廿日、三日間 | ||
明治40 | 1907 | 7/16 | |||
明治41 | 1908 | 7/17〜19 | 十七、十八、十九日、三日間厚木天王祭 | ||
明治43 | 1910 | 7/15 | 厚木天王祭 | ||
明治44 | 1911 | 7/15〜17 | 厚木天王祭十五、十六、十七日、三日間 | ||
明治45 | 1912 | 7/15 | 后、厚木天王祭ヘ行、后休 | ||
大正3 | 1914 | 7/15〜17 | 厚木天王祭ニ付后休暇ス 厚木天王祭三日間ニテ了ル | ||
昭和11 | 1936 | 7/15〜17 | 7/14宵宮祭 | ||
昭和20 | 1946 | 7/15〜16 | 郷土史日記 (鈴村記) | ||
昭和21 | 1946 | 7/15〜16 | 終戦後初の祭典 | ||
昭和22 | 1947 | 7/15〜16 | 7/14宵宮祭 | ||
昭和29 | 1954 | 7/16〜17 | 賑わう四万の人手 | 神奈川新聞記事 | 15日雨天のため1日延期 |
昭和30 | 1955 | 7/15〜16 | 厚木市制後初の祭典 | ||
昭和49 | 1974 | 7/14〜15 | 1日繰り上げて日・月にする | ||
昭和50 | 1975 | これ以降7月中旬の土・日 |