妻田つまだ

妻田神社

  「妻田神社」の祭神は「天忍穂耳神(あめのおしほみみのかみ)」で、後鳥羽天皇の代であった元暦元年(1184年)に、山城国宇治郡(京都)に所在する「許波多こはた(木幡)神社(旧称柳大明神)」から分霊したと伝えられている。旧号を「鮎川神社」と称え、京都の本宮が柳山にあるので江戸時代に「柳大明神」と改めたが、明治3年(1870年)の政令により「妻田神社」と改称した。明治4年(1871年)には上地となる。
  境内地は403坪で、江戸時代には社領30石、所有地は1913坪であった。江戸幕府からは天正19年(1595年)11月に社領1石5斗の御朱印地を賜り(朱印状は県に保管)、明治初年に上知されるまで続けられていた。この時の朱印状は現在、神奈川県立歴史博物館に保存されている。社殿は江戸期の元禄6年(7年?)(1693年)10月に再建し、更に元治元年(1864年)7月に半原(現愛川町)に居住していた宮大工の愛次郎と上荻野に居住していた磯右衛門の両名により本社殿を普請し、その後慶応2年(1866年)に拝殿が竣工した。文政9年(1826年)の地誌によれば当時の境内地は1093坪で、本社宮殿(間口2間半、奥行4間)の位置は当時の妻田村の中央より西寄りで方向は南向き、本殿(間口5尺8寸、奥行3尺5寸)に納められた御神体は銅製の大日如来像(高さ25cm程)であった。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると、妻田村の神社と小祠に関して、鎮守である「柳明神社(別当は教福院)」・「天神社(西福寺持)」・「稲荷社(村持)」・「神明社(村民持2社と教福院持1社)」・「石神社(遍照院持)」・「妙音社(遍照院持)」の記載がある。また、寺院と堂宇に関しては、宝亀山往生院・浄土宗の「西福寺」、吉祥山・臨済宗の「青松寺」、「薬師堂」の別当は遍照院で境内に天神社・秋葉社あり、白根山東光寺・古義真言宗の「遍照院」、田龍山東福寺・当山修験の「教福院」があった。
  明治5年(1872年)に神仏分離合社令等が発布され、寅卯の方向あった「天神社」、卯(東)の方向にあった「神明社」と他2社、子の方向にあった「妙見社」、戌寅の方向にあった「稲荷社」など妻田7社を合祀し、同年7月30日付にて村社に列した。その際に仏体であった大日如来を神格に替えて祭神天忍穂耳命と称したという。当社の別当寺院として江戸時代に三浦氏先祖南蔵法師によって境内地へ田竜山東福寺が建てられ護摩堂と鐘楼も存在したが、明治初年に廃寺(建物、仏像等は現存していない)となり当時住職であった三浦氏は還俗して神職に転じた。元の参道は東福寺の南にあったので鳥居は移動している。
  昭和9年(1934年)8月30日付けにて神饌幣帛料の供進神社となり(朱印地は境内が入らない)、昭和25年には神楽殿が木造切妻造亜鉛葺(間口5間、奥行3間)が完成した。当社境内の不動堂のあった跡地には部落内に所在した小祠や石祠等を集めて合祀しており、宝筺印塔や古代板碑、秋葉講、灯籠、五輪塔、庚申塔、道祖神碑等がある。当社の宝物として朱印とこの朱印箱の他に剣2振があり、天保11年(1840年)に彫刻された七福神像も保管されている。また、樹齢200余年の大楠並木があったが、昭和38年(1963年)に伐採されてしまった。

妻田神社鳥居
社号柱社号柱
水鉢
狛犬狛犬
拝殿幣殿・本殿
神楽殿末社
石燈籠
由緒境内
妻田自治会館


各自治体の巡行

  大祭当日の式典後には、各自治体で神輿や太鼓の巡行が行われる。妻田は神輿がなく太鼓のみの巡行になり、瀬戸睦は7月末の夏祭りに神輿渡御を行っている。

●市場(いちば)自治会

市場公園神輿御座所
子供たちへ挨拶お神酒で乾杯
町内を巡行お賽銭をもらう
「いちば小若れん」の囃子小太鼓は正座で叩く
ドン♪ドン♪ドン♪神輿は軽トラックで移動

●妻田中央(つまだちゅうおう)自治会

中村橋公園にて公園を出発
ドン♪ドン♪ドン♪太鼓のトラックをロープで引く
県道412号線にて担ぎ手をうちわで扇ぐ
お賽銭をもらうお礼に神輿を振る

●中村(なかむら)自治会
  神輿は昭和50年代に地元で製作されたものである。太鼓は古沢からもらった大太鼓があり、昔は古沢と交流があったといわれる。

町内を巡行金棒
太鼓が先導「中村子供会」の囃子
わっしょい わっしょい担ぎ手をうちわで扇ぐ
賽銭箱加藤食糧(有)前で休憩
神輿の前で記念撮影後半は神輿を台車に載せる

●反田(そりだ)自治会

反田公民館テント
「反田太鼓連」の囃子町内を巡行
バイパス付近にて巡行を終えた山車

●そりだハイツ自治会

小さい太鼓が先導ドン♪ドン♪ドン♪
太鼓を引っ張るさいせん箱
わっしょい わっしょい足場とクーラーボックスのリヤカー

●白根(しらね)自治会

太鼓が先導「こども太鼓連」の囃子
叩き手をうちわで扇ぐ金棒
賽銭箱わっしょい わっしょい
カラフルな賽銭箱
休憩所にて白根山王社

●三家南(さんやみなみ)自治会

神輿が先頭わっしょい わっしょい
太鼓は後方で囃す小太鼓は3個並ぶ
賽銭箱後方にも賽銭箱
樽神輿神輿渡御が無事に終了

●木売場(きうりば)自治会

FUスポーツプラザ厚木にて町内を渡御
ドン♪ドン♪ドン♪「木売場太鼓連」の囃子
小太鼓は4個並ぶ賽銭箱


余興のスケジュール(平成20年9月6日)
時間内容団体名
17時40分〜17時50分(10分)三番叟美舟舞踊団
17時50分〜18時20分(30分)太鼓演奏地元太鼓連
18時20分〜18時50分(30分)舞踊1回目美舟舞踊団
18時50分〜19時20分(30分)太鼓演奏地元太鼓連
19時20分〜19時40分(20分)舞踊2回目美舟舞踊団
19時40分〜20時10分(30分)各太鼓連の発表地元太鼓連
20時10分〜20時40分(30分)舞踊3回目乙女ダンサーズ
20時40分〜21時10分(30分)太鼓演奏地元太鼓連
21時10分〜21時30分(20分)舞踊4回目美舟舞踊団
21時30分〜22時00分(30分)太鼓演奏地元太鼓連

囃子と山車

  妻田地区の山車は現在6基で、平成20年度(2008年)は神楽殿に対して左から「三家南」・「市場」・「白根」・「反田」・「中村」・「木売場」の順で設置された。山車は毎年1基ずつ左にずれ、一番左の山車は一番右側に移動する。反田と三家南の山車はばらして神楽殿にしまうが、それ以外の山車は各地区の格納庫にしまわれている。
  反田の山車は昭和初期頃の製作と伝えられており、かつては厚木神社の祭礼に毎年曳き出していたという。また、市場はかつて当地の「長野家」の持ち物であった山車を譲り受けたといわれ、昔は義太夫を演ずるもので中央が回り舞台になっていて、仕切りの襖もついていたという。本来は彫り物が付いているが、太鼓を叩く際に邪魔になるので現在は外している。山車は長野家の駐車場にある格納庫にばらさずにしまっている。白根の山車は平成に入ってから製作されたもので、中村の山車も平成8年(1996年)7月に新築している(古い山車は残っていない)。木売場の山車は平成11年(1999年)8月に新築したもので、それまで使っていた山車は三家南に譲っており、三家南は現在もこの山車を使っている。

三家南市場
白根反田
中村木売場
境内に並ぶ6基の山車神楽殿から張られたビニールテープ

  宵宮の8時より反田と三家南は境内で山車の組立てを始め、他の4つの自治体は山車を曳いて境内に持ってくる。13時迄には全部の山車(6基)が揃い、山車の足元(腰部)は祝儀の紙を張るため板の柵をする。宵宮では社殿がある地区の「市場太鼓連」が山車の上で夜9時まで太鼓を叩き、他の6地区の太鼓連は各地区をトラックの屋台で巡行する。巡行途中では神社による地域も多く、反田は境内の山車に太鼓を移して演奏する。
  大祭当日は夜の余興まで境内の山車で太鼓が叩かれることはないが、各地区でトラックの山車が神輿と一緒に巡行する。

三家南市場
白根反田
中村木売場

  妻田で囃される曲目は「一六(いちろく)」と「ばかばやし(にんば)」の2曲で、ばかばやしは子供の練習曲のような位置付けで、大祭当日の境内では一六しか叩かれない。一六は威勢の良い「ぶっこみ」から始まり、「きざみ(六段返しの部分)」の回数は決まっていなく大太鼓の合図で次のフレーズに移る。昭和中頃までは全ての山車で笛と鉦があったといわれるが、現在は継承者が存在しない。以前の小太鼓の数は2個であったが、子供たちが叩けるようにと3または4個に増やした地区もある。また妻田の囃子については、明治中頃に千葉から「稲毛囃」の太鼓が伝わったとの伝承もある。
  妻田南地区の「木売場太鼓」は「木売場太鼓保存会」によって伝えられており、厚木市元町に伝わる「稲毛囃子」を伝習したといわれる。囃子は「大太鼓1」・「締太鼓4」で構成され、囃子の正式な形式はとらないが、一六太鼓の系統である。
  大祭に向けた練習は各自治体で行っており、市場では大祭の3週間前からほぼ毎日、反田では大祭の1ヶ月前前から週2回ずつ行っている。
  各町内の巡行を終えた自治会は16時30分頃から境内に太鼓を持ち込み、山車の上に太鼓を設置していく。17時40分までには全ての地区の太鼓が揃い、神楽殿にて余興が始まる。

各地区の太鼓連が到着(木売場)山車に太鼓を設置(中村)
競太鼓が始まる幕が閉まると・・・
再び競太鼓2幕が終了
競太鼓がピークに達する真っ直ぐ歩けません^^;

  15時40分からは神楽殿にて三番叟が始まり、その後は舞踊が4幕余興としてあり、各幕の合間に30分ずつ地元太鼓連の演奏が行われる。
  17時40分からは各地区の太鼓の発表が行われ、山車の明かりは一度全て消され、発表する地区の山車のみ明かりが付けられる。各地区とも発表には力を入れており、発表用の衣装を調える叩き手もみられる。

全ての山車が消灯発表する山車のみ点灯(三家南)
発表用の衣装を調える(中村)太鼓を覚える子供達(市場)
発表後に拍手を貰う(中村)大勢の観客

  発表は一番右側の山車から始まり、20時10分までの30分間ほど行われる。

木売場太鼓連の発表中村太鼓連の発表
反田太鼓連の発表白根太鼓連の発表
市場太鼓連の発表三家南太鼓保存会の発表
囃子(中村)

  22時になると太鼓の演奏が終わり、軽トラックなどで太鼓やその他の荷物を積み、各地区へ帰って行く。山車の片付けは翌日の朝から行われる。

最後の締め(市場)記念撮影(反田)
太鼓を外す(反田)提灯を外す(木売場)
山車の明かりが消えていく荷物を軽トラックに積む
各地区へ戻る山車の片付けは明日


神輿

  妻田にある12の自治会のうち8の自治体で子供神輿を所有しており、大祭当日には各自治体の神輿が妻田神社に集まる。

三家南そりだハイツ
白根中村
木売場市場
妻田中央瀬戸睦

  12時30分頃より各子供神輿に御霊を入れてからお祓いをし、式典後にそれぞれの神輿は各地区の役員により境内から担ぎ出され、トラック等に載せて各地域に移動する。

お祓い紙吹雪を掛ける(妻田中央)
神輿を移動(妻田中央)トラックで各地区へ戻る(白根)


例大祭

  昔の例祭日は9月5日であったが、現在は8月末か9月頭の土曜日に行っており、消防の都合により日程は調整される。
  宵宮では神楽殿の軒の所まで飾り付けをし、造華(花)を取り付ける。神楽殿のソデ(花道)を造り、祝儀を張り出すための場所を氏子と有志と役員とで造る。
  大祭当日は自治会の役員と氏子総代が境内と本殿を午前中に清掃し、式典のために本殿に椅子(布張の簡単な物)を並べる。式典は社殿にて12時から飯山の神主(飯谷氏)によって行われ、その後は境内に降りて各自治会長が玉串奉奠をする。

式典各自治会の役員
式典が終わり境内に降りるお祓い
神輿に御霊を入れる
玉串奉奠

  妻田では式典が始まる合図や、余興が始まる合図などは花火で知らせる。露天商は参道の両脇と社殿の両側に出店し、平成20年(2008年)度は24店が並んだ。
  舞踊は毎年「美舟舞踊団」を呼び、4幕の内1幕は地元の「乙女ダンサーズ」の踊りが披露される。余興のスケジュールは下記のとおりである

自治会館前の露店花火で時刻を知らせる
準備されたステージ神楽殿に供えられた供物
塩や米をまく三番叟
華麗な舞乙女ダンサーズ
多くの観客途中で上がった花火
社殿奥側の露店社殿手前側の露店
そろそろ舞踊も終盤に最後の挨拶
のしで埋まった掲示板神楽殿の片付け


妻田の歴史

  旧妻田村は厚木市域の中央部東寄りに位置し、村域は広く相模平野にあり、北西部には荻野台地最南部の低い段丘面が細長く舌状に存在している。東境には中津川が流れ、西境から南境には荻野川とこれを合流した小鮎川が流れており、中央部にはひたし川が流れている。村域西側を南北に甲州道が、また北側には順礼道が東西に通っている。村域中央の沖積地一帯は広く水田で、西側の台地上と東側の自然堤防に畑地があった。周辺に関しては、東側は中津川を隔てて金田村、南側は小鮎川を隔てて厚木村・戸室村、西側は小鮎川・荻野川を隔てて林村と及川村、北側は三田村に接している。
  中世の頃の妻田村に関する資料は多く、初見は観応3年(1352年)の「将軍足利尊氏禁制写」に「相模国毛利庄内妻田郷」とあり、永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡妻田郷」と記載されている。妻田薬師堂本尊の薬師如来は中世期に造立されたもので、厨子や須弥壇、銅鐘その他の文化財が多く伝えられている。近世の支配は幕府・旗本領等の5給、中期以降は藩領・旗本領の2給であった。明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、下川入村・棚沢村・三田村・及川村・林村と「三田村外五ヵ村組合」を組織した。昭和21年(1946年)にこれら5村と合併して睦合村の大字妻田となり、昭和30年(1955年)に厚木市の大字妻田となった。
  旧集落は北西部の低い台地上と小鮎川・中津川の自然堤防上にある。小鮎川沿いの台地末端部自然堤防上に「シラネ」・「ナカムラ」・「イチバ」・「キウリバ」があり、中津川沿いの自然堤防上には「ソリダ」がある。また、キウリバの北東に離れた所にキウリバに含まれる小集落「サンヤ」がある。『風土記稿』には小名として「市場」・「木売場」・「白根」・「中村」・「反田」が記載され、これらの地名は現在もそのまま引き継がれている。なお、シラネは永正2年(1505年)の『西院流血脈集』に「相州白根遍照院」とあり、ソリダは永禄12年(1569年)の『甲陽軍艦』に「そり田」と記載があることから、いずれも古くからの呼称であった。『風土記稿』によると幕末の戸数は130戸、『皇国地誌』によると明治初期の戸数が143戸であった。
  小鮎川の改修によって川の西側に隔たった南西部の部分は県営吾妻団地が建設され、「吾妻町」の住居表示が実施されるとこの部分は厚木地域に含まれることになった。また、主要地方道厚木津久井線(現412号)と国道246号線バイパスの建設以後、道路沿いには事業所や外食産業が盛んに進出した。また、台地および自然堤防上では住宅団地の建設が急速に進み、「妻田東」・「妻田西」・「妻田南」・「妻田北」の住居表示が実施されている。



関連ページ

●平成27年(2015年)8月22日・・・妻田神社例大祭 (妻田編)



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