西大竹にしおおたけ

嶽神社

  元大竹村は鶴疇山八幡宮の氏子であったが、正保年間に尾尻村より分村し、桃山時代より尊崇していた御霊社は漸次神威をかため、享保初期に村高も別れたが、神社は二重氏子として両社を崇敬していた。
  明治4年4月に産土神社への名簿納めが戸籍の責を持つに至り、同年7月4日御霊社を「嶽(たけ)神社」と正式に改名し、八幡神社と両社に名簿納めしたことから足柄県庁に出訴?争中、神主草山兵庫の依頼により近隣4名主の仲裁となり、示談成立した。明示8年5月22日に古宮伝兵衛外60人連印の議定書により落着、嶽神社の単独氏子となった。明治22年5月11日に社殿も多くの彫刻を入れて立派に完成した。昭和28年に宗教法人となり、昭和53年4月に宮大工関野実氏によって大改修が行われ、現社殿が完成した。
  祭神は「日本武之命(やまとたけるのみこと)」で、境内社は「御霊社」・「八坂社」である。

石碑
鳥居神社由緒
手水舎
西大竹自治会館
燈籠狛犬
拝殿本殿・幣殿
八坂神社
 
境内

太鼓

  



神輿

  



西大竹の歴史

  尾尻から分村した大竹は正保図(1645年頃)にはないが、元禄図(1695年頃)にあることから、正式に分村したのはこの間であると考えられる。『郡勢誌』では大竹について、尾尻に属していた当時、交通が盛んになるにつれてここに継立場が設けられ、ここを大駄家と称したとしている。西大竹と称したのは伊勢原の大竹(現東大竹)と区別するために、位置からして伊勢原の方が東大竹と呼ばれ、ここが西大竹になったという。
  『風土記稿』にある大竹村の小名は「開戸」・「中開戸」・「向」・「北ノ庭」・「上ノ庭」であり、天保5年(1834年)の戸数は63であった。大竹村は明治6年(1873年)に西大竹村に改称された。


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