尾尻
八幡神社
「八幡神社」は尾尻の鎮守で「誉田別之命(応神天皇)」を祭神とし、境内には摂社の「津島神社」と末社の「御嶽社」が祀られている。創立年代は不詳であるが、往時は「八幡宮」と称え、源頼朝の建久年間(1190〜98年)には既に現位置である鶴疇山(つるとしやま)に祭祀され、「尾尻」・「大竹」・「砂口」三村の鎮守であったと伝えられている。尾尻地区が八幡神社の北側に広がっているのにもかかわらず、社殿が南側を向いているのは、西大竹と中井の砂口がかつて八幡宮の氏子範囲であったことが関係していると推測される。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると八幡宮は尾尻・大竹両村の鎮守で、神体は馬乗りの像、本地三尊弥陀は鉄鏡に鋳出し、傍らに建保3年(1215年)9月16日の日銘がある。天正19年(1591年)11月に社領三石五斗の御朱印を賜り、その頃に東照宮が当社に立ち寄り、神主屋敷内で休息されたと言い伝えられている。古い棟札を蔵していたが、文字が漫滅して読める状態ではなかった。しかしながら、記録に永正11年(1514年)、天正5年(1577年)年大江治部左衛門、慶長6年(1601年)高橋木工右衛門、慶長16年(1611年)高橋兵八郎などが記されていた。
八幡宮の社地は小丘にて「鶴疇山」と称し、幣殿・拝殿・神楽殿が建っていた。末社には「春日」・「熊野」・「神明二」・「稲荷」・「御嶽」があり、「山王愛宕飯綱」を合祀していた。天正の頃は大江治部左衛門が神主で、後に吉田家の配下であった高橋長門が先祖(慶長6年の棟札の高橋木工右衛門)から社務を譲り受けたと伝えられている。「山王社」は元は僅かな社であったが、寛政10年(1798年)に村民により再建され、階作とする百観音を安置して村持ちとした。このとき社地から石光山と彫られた石(三角形で高さ一尺)が出てきたため、この社地を石光山と呼ぶようになった。山王社の末社は「金毘羅」と「疱瘡神」であった。この他には近き頃に勧請された村民持ちの「神明宮」と、寿徳寺持ちの「第六天社」があった。この「寿徳寺」は福養山と号し曹洞宗で、堀山下村蔵林寺を松寺としていた。天文11年(1542年)の草創で、本尊は釈迦、境内に「白山社」があった。
八幡宮は鎌倉将軍の尊崇篤く相模三鶴八幡(鶴岡・鶴疇・鶴峯)の一つとされ、政子安産の祈願所とされたという。鶴岡八幡宮修理料寄進文書には、観応3年(1352年)9月9日に鶴疇八幡宮の氏子民が鶴岡八幡宮の建設ならびに修理料など、多額の寄進をしたことが記載されている。鶴疇山の八幡宮の本殿は明和8年(1771年)の建立で、この棟札は大竹の嶽神社本殿に納められていた。
大竹村は明治政府の一村一社制の指導により八幡宮の氏子を離脱し、新たに氏神を祀って嶽神社の氏子として独立した。明治5年(1872年)5月22日の議定書によれば、大竹村と尾尻村の氏子総代、立会人今泉名主「清水仙左衛門」、外名主2名、神主「草山兵庫守貞胤」等が熟議した結果、大竹村が離脱して八幡宮が尾尻村の総鎮守となったことが記載されている。明治6年(1873年)に八幡宮は八幡神社と改称して村社に列せられ、昭和58年(1983年)11月に現在の社殿が造営された。現在は秦野市平沢にある出雲大社が本務神社となっている。
八幡神社 | 社号柱 |
鳥居と参道 | 八幡神社略記 |
社殿に続く石階段 | 手水舎 |
拝殿 | 覆殿・幣殿 |
八幡宮神額(明治45年) | 八幡宮神額(昭和27年) |
津島神社 | 津島神社神額(明治45年) |
御嶽神社 | 親子鶴(親) |
日露戰役従軍紀念碑 | 八幡神社略記 |
鳥居(北側) | 境内 |
尾尻の歴史
旧尾尻村の区画は新たな町の成立によって分かり難くなっているが、尾尻の全域と南が丘・立野台・今川町・大秦町・室町の一部で構成されていた。現在の八幡神社の氏子範囲も複雑であり、尾尻・大秦町・室町のほぼ全域と、南が丘・今泉の一部が対象範囲である。なお、尾尻以外の南が丘・立野台・今川町・大秦町・室町は市街地の拡大や宅地造成によって新設された町名である。尾尻の小字名には「竹ノ下」・「臼井戸」、「下尾尻」・「坂下」、「大上」・「大六天」・「明星」・「尾崎」・「峯開戸」・「鶴巻」・「向原」・「八幡山」・「小原台」・「堀込」・「清水」・「西立野」・「大久保」・「上池久保」・「下池久保」があり、竹ノ下と臼井戸は現在の大秦町、下尾尻と坂下は現在の室町にあたる。
尾尻という地名の起因には伝説があり、諏訪明神の権化した蛇体の尾がこの地に横たわっていたという話が残っている。『神奈川県中郡勢誌』には、尾尻村が中郡と足柄上郡(中井町)との境をなす丘陵の尽きる所にあることから「丘(おか)の尻(しり)」という地形語を以って名付けられたとあり、「おか」は「丘処(おか)」であることから、その主要詞素である「丘(お)」に「尾」の漢字を宛て、接尾語の「尻」を付けて丘の末端の意味を表現していると表記されている。
尾尻から分村した大竹は正保国絵図(1645年頃)にはないが、元禄国絵図(1697年頃)にあることから、正式に分村したのはこの間であると考えられる。しかしながら、元文(1736〜40年)の頃の土人は一村の体制を続け、村高も分けることがなかった。そこで、かつての尾尻村の名主で指揮を執っていた者が既に分村していたことを知り、官へ訴えて村高を分けることにより完全に二村となったが、当時の二村の境界は錯雜していた。北条氏の頃は堀和彦十郎の知行で、江戸時代後期は森川内膳正俊知の領分、小栗猶之?正叙の知行であった。
『風土記稿』にある小名は「上方(宇陪、加太)」・「新田」・「寺ノ下」・「臼井戸」・「明星」・「鶴巻」であり、天保5年(1834年)の戸数は43戸であった。林は三ケ所にあり、村内には幅九尺の小田原道が通っていた。曾屋村との北境には河原共に幅が約七十間の水無川(天谷川とも唱ふ)が流れ、幅が約三間の室川が尾尻村の北側を流れていた。また、清水が北方の臼井戸と南方の寺ノ下から湧き出ているとある。
現在の尾尻・大秦町・室町を合わせた自治会区分は、「上方町(うえがたちょう)」・「新田町(しんでんちょう)」・「臼井戸(うすいど)第1」・「臼井戸第2」・「八幡山(はちまんやま)」・「小原台(おばらだい)」の6つに分けられており、それぞれの自治会で会館(臼井戸は第1と第2で共有)を所有している。
上方町自治会館 | 新田町自治会館 |
臼井戸公民館 | 八幡山自治会館 |
小原台自治会館 |
●南が丘
南が丘は昭和50年(1975年)から住宅団地として開発された。
●立野台
平成17年(2005年)に西大竹尾尻特定土地区画整理事業が立野台として完成し、新たな街並みが整った。
弘法の清水
臼井戸の清水(湧水)には水神石祠が祀られており、井戸の形が臼に似ていることから臼井戸という小字名になったと伝えられている。1985年(昭和60年)に秦野盆地湧水群が環境庁により「全国名水100選」に選定され、湧水郡の中で特に有名なのが弘法大師の伝説が残る「弘法の清水」である。水温は16℃前後で水量は日量100トン前後、現在も水をくみに多くの利用者が訪れる。
臼井戸の伝説には諸説あるが、湧水地主の代々の言い伝えによれば、おおよそ次のような由来となっている。夏の暑い日に弘法大師(空海)が農村に立ち寄り、妻女に飲み水を所望したところ、その場には水が無く、妻女は弘法大師の為に遠くまで水を取りに行った。弘法大使は感謝して杖を地面に差し込むと、地中から水が湧き出て来た。
弘法の清水 | 水神石祠 |
祭礼の歴史
例祭日は『風土記稿』では旧暦の8月15日で、『相中留恩記略』によると天保年間には8月15日の祭礼に相撲興行が行われていた。これは天明8年(1788年)の「八幡神社昼相撲興行につき一札」によると、尾尻・大竹両村の若者が相撲をしたいからと、若者仲間から頼まれて総代が村役人に願い出て、表向きには許しがたいところであったが、たってということなので、宮本は元より三給役人には迷惑を掛けないことを条件に許された。祭礼日は近年では4月21日であったが、現在は4月21日に近い日曜日に行われ、21日より前に来ない様に決まっている。
現在の祭りは神輿渡御が中心で、神輿はお宮から宮立ちし、尾尻地区を渡御して宮入りするが、このようになったのは最近のことである。かつての祭りは神輿の渡御と青年団の有志による田舎芝居や素人演芸会が併せて行われ、その舞台づくりや出し物などを準備する必要があった。場所は現在のイトーヨーカドー界隈が中心で、約千坪ほどの広い公園となっていた。その中心に観音堂が祀られ、南隣に尾尻会館(青年会館)、南側に輿堂があり、公園の中心に銀杏の大木が聳えていた。この空き地に村民と青年団の奉仕で舞台小屋と太鼓の櫓が建てられた。完成した舞台は紅白の幕と提灯そして造花などで飾られ、祭礼当日になると露天商も出た。見物人は重箱にご馳走を詰め、場所取りで早くから集まって来た。一方、役者に選ばれた青年男女は相当前から練習を重ね、本番では化粧と衣装で役者作りが行われた。出し物は「国定忠治」や「勘太郎月夜歌」など、お涙ものが多かったようである。当時の青年団には女子青年団もあり、女性が花や飾りを作り、男性が神輿を担ぐ方を担当していた。
今では揃いの半纏で神輿が担がれているが、かつてはそれぞれに派手な衣装を作り、顔には薄化粧をしていた。秦野駅前では今泉の近江屋酒店に担ぎ込んで振る舞い酒をご馳走になったり、昭和橋(現まほろば橋)を渡って本町分にまで担ぎ入れたりしていた。
イトーヨーカドー周辺一帯は梅原男爵の所有地であったが、昭和43〜44年(1968〜69年)頃にこの付近は整備され、神奈中ボールが建設された(後に赤札堂→イトーヨーカドーと変わる)。さらに観音堂は寿徳寺の境内へ移転され、尾尻会館は各町内がそれぞれの自治会館を建設することで役目を終えた。その後しばらくしてから輿堂が八幡神社の境内に移転された。
宵宮準備 (開始7:00、終了10:30)
ここからは平成28年(2016年)4月23日の土曜日に行われた宵宮の様子を紹介する。例大祭の前日の宵宮では午前7時から、青年会によって準備が行われ、神輿の捩り掛けや山車の飾り付けなどが行われる。
平成橋近くの交差点には | 例大祭のポスターが掲示 |
神社入口には八幡神社の幟 | 参道には提灯が並ぶ |
境内の提灯枠にも | 提灯が並ぶ |
地元の方が参拝に訪れる | 6時40分頃に青年会会長が到着 |
集合時間前ですが | 輿堂の扉が開けられ |
青年会の準備が始まり | 中から荷物を運び出す |
軽トラの山車が境内に到着 | こちらの荷物は重そうです |
社殿前まで移動 | 軽トラが一台到着 |
ローラーコンベアを神輿の前に置き | 神輿を覆うシートを外す |
社殿の縁の下から | 轅(ながや)を抜き出し |
社殿前へ移動して | 馬の上へ置く |
二本目も抜き出し | 馬の上に置くと |
タオルで汚れを | 拭き取る |
長さの異なる横棒も | 二組抜き出す |
集合予定時刻の7時になると | 青年会会長の挨拶があり |
改めて | 準備を開始 |
轅を輿堂へ | 運び |
棒穴へ入れると | コンベアに載せて |
神輿を引き出し | 轅を貫通させ |
担いで | 社殿前へ移動 |
正面を参道側へ向けて | 馬を入れると |
神輿をおろして | 轅を固定する |
木箱から出てきたのは | 神輿の飾り金物 |
ブルーシートへ並べていく | 参道に太鼓の山車が到着 |
社殿内では捩り掛け用の | 晒を折り畳む |
神輿の台輪や | 胴回りをタオルで磨く |
境内では芯出し用の | 綱作り |
山車でも飾り付けが始まる | 神輿は屋根部を磨く |
晒を捩じる | 山車に提灯を取り付ける |
神輿から馬を抜き | 特注で造った鉄製の台へ |
神輿をおろし | 屋根部を磨いていく |
社殿から取り出したのは | 立派な鳳凰 |
捩じった2本の晒をさらに撚る | 鳳凰を晒で磨き |
脚部を掴んで持ち上げると | 脚立を上がって |
露盤へ足を差し込む | こちらは式典で使う台作り |
蕨手を野筋の先へ取り付け | 木のテーパーピンで固定 |
屋根の四辺には | 葺返を取り付ける |
蕨手に小鳥を差し込み | 回してあった注連縄を取り外す |
綱は念入りに撚ります | そろそろ捩り掛けが始まります |
軽トラの山車に太鼓の枠と | 紅白幕を取り付ける |
捩り掛けは蕨手からスタート | 晒を蕨手の根元に結び付ける |
正面の左右の蕨手に | 晒を結びつけると |
晒は屋根部中央の | 鳳凰へ向かう |
撚った綱を轅の先端の | 穴へ通し芯出し綱の完成 |
捩りは鳳凰に巻き付け | 対角線上の蕨手へ |
もう一方の捩りも | 鳳凰へ巻き付ける |
社殿内では太鼓や | 祭壇の準備 |
捩りを蕨手へ固定 | バランスよく張っていく |
7時45分頃から自治会員が | 集まり始め境内を掃き掃除 |
屋根部の捩り掛けが終わると | 轅を抱え上げ |
馬にのせて | 晒を環へ結び付ける |
参道や階段 | 境内では落ち葉を集める |
捩り掛け用の晒の準備 | 環から蕨手へ捩りを渡す |
特注で造った神輿用の台です | 4人で抱えて |
階段の下へ運んでいく | 捩り掛けは後半へ |
神社の役員と自治会員は8時前から作業を始め、社殿や境内の掃除、祭壇の準備などを行う。
8時頃になると | 宮総代の挨拶 |
神社役員と自治会員が集合 | 宵宮の準備の説明 |
捩り掛けはまだ続きます | 続いて神社役員のみ集まる |
挨拶が終わると自治会ごとに | 分かれて落ち葉の掃き掃除 |
青年会では茣蓙を敷き | 稲穂を集める |
社殿では幣殿と | 本殿周りを拭き掃除 |
階段と参道も掃き掃除 | 捩り掛けは最後の仕上げ |
晒に挟んだバチを回して | 捩りを張っていく |
社殿の階段と扉も掃除 | 集めた落ち葉を袋へ詰める |
捩りを締め上げると | バチを反対側の捩りへ通す |
張りが強くかなりきつそうです | 出来上がりはこんな感じです |
短い方の横棒を運び | 轅の上へ置く |
注連縄を | 組物の下で一周回す |
袋に詰めた落ち葉は | 一箇所に集められる |
神輿では麻縄を用意し | 横棒を轅に縛り付け |
緩まない様にカケヤで締め付ける | こちらは神輿に飾り付ける榊 |
拝殿に掛けてあった提灯を | 外して床の上へ |
神輿の胴回りを | 網で覆う |
1年の汚れを念入りに掃除 | 稲穂の飾りは終盤を迎え |
紙垂を結びつけて | 形を整える |
一度外していた小鳥をセット | 稲穂はカットして長さを揃える |
拝殿の外回りに幕をまわし | 中央を結び上げる |
拝殿内では提灯の準備 | ずいぶん沢山あります |
新旧で分けて5個でまとめると | 火袋を下げる |
鳳凰の嘴に | 稲穂の飾りを取り付ける |
拝殿内の提灯を | 運び出し |
軽トラの荷台へ積む | 大きい提灯は木箱へ仮置き |
神輿の4箇所の鳥居に | 榊を飾り付ける |
長い方の横棒を移動 | もう一台の軽トラには備品が |
先ほどの大きい提灯を | 神輿へ運び |
四隅へ取り付けていく | 拝殿内では太鼓の準備が始まる |
神輿の準備が終わり | 余った晒を折り畳む |
外に出した荷物を | 輿堂へしまう |
本殿の注連縄に紙垂を付ける | 締太鼓は高い音を出すために |
足で踏んで革を伸ばし | ボルトで締めて行く |
青年会は神輿の準備を終え | 会長の挨拶 |
飾り付けを終えた神輿を | 写真に収める |
社殿内では太鼓の準備を終え | 大太鼓と |
締太鼓を | 運び出し |
階段下の山車へ移動 | 大太鼓を柱へ括り付け |
締太鼓に鉄の棒を通し | 枠へはめ込んでいく |
準備が終わるとブッツケから | 祭りばやしを演奏 |
私も一緒に叩かせて頂きました | 尾尻はかなり音が高いです |
9時40分頃に演奏を止め | 子供たちが集まり始める |
山車へ乗り込み | 祭りばやしを叩くと |
参道を出発して | 尾尻地区を巡行していく |
社殿内では再び太鼓の準備 | 足で踏んで革を伸ばし |
さらに丸い掛矢で叩く | 御門の青年会が挨拶に訪れる |
もう一カラの締太鼓は | 軽トラの山車へセット |
拝殿周りの幕はなんと | 大正14年のものです |
大太鼓を運び出し | 山車へ取り付けると |
太鼓を叩きます | 準備を終え10時40分頃に解散 |
宵宮祭・御霊遷しの儀 (開始12:55、終了13:25)
12時55分からは社殿内で神事が執り行われ、神主により神輿へ御霊が遷される。
巡行していた山車が | 12時15分頃にお宮へ戻り |
バックで参道へ入って | 階段前で停車 |
12時30分頃に青年会が集合 | 襷を配っていく |
高張提灯を | 竿に取り付ける |
本殿では供物を並べ | 拝殿に椅子を並べる |
青年会は神輿前で記念撮影 | 肩を入れて |
神輿を担ぎ上げると | 180度旋回 |
正面を社殿側へ向けると | ギリギリまで神輿を寄せて |
馬の上におろす | 応援の担ぎ手を出迎える |
御霊入れの準備を終え | 時刻は12時50分 |
代表者が社殿へ上がり | 12時55分に神事が始まる |
神主自ら竜笛を吹く | 始めに修祓で祭壇をお祓い |
続いて巫女と | 宮総代をお祓いし |
最後に出席者をお祓い | 続いて祭主一杯 |
開扉ならびに | 献饌 |
祝詞奏上 | 玉串拝礼は |
神主から始まり | 宮総代 |
神輿保存会 | 太鼓保存会と続き |
最後に6地区の | 自治会長が順番に拝礼 |
撤饌ならびに | 閉扉 |
祭主一杯で | 神主から挨拶があり |
中央に通路を確保すると | 御霊を抱えて外へ出る |
神輿の唐戸を開け | 神輿に御霊を入れる |
神主が社殿へ下がり | 出席者が席を立つ |
発御祭・発御の儀 (開始13:25、終了13:35)
社殿内で前夜祭が執り行われると出席者は境内へ移動し、神輿の前で神事を執り行う。
青年会が神輿に肩を入れ | 180度旋回 |
神事を終えた出席者が境内へ | 正面を鳥居へ向けて輿をおろす |
高張提灯を | 神輿に立て掛け |
轅の上に | 供物を準備 |
神主と巫女が境内へ降り | 竜笛を演奏 |
最初に神輿をお祓い | 続いて代表者をお祓い |
続いて祝詞奏上 | 玉串拝礼は宮総代を筆頭に |
神輿保存会 | 最後に太鼓保存会 |
竜笛の演奏で神事は終了 | 供物を片付ける |
宵宮渡御
●宮出し (出発13:40)
神事を終えると青年会会長の一本締めで神輿が担がれ、八幡神社をお発ちする。
供物のお神酒を | 盃に酌み |
宮総代の挨拶で | 乾杯 |
青年会会長から挨拶があり | 一本締め |
階段下の山車では太鼓を叩く | 神輿に |
肩を入れ | 担ぎ上げる |
高張提灯と青年会長が先導 | 神輿が社殿前を出発 |
境内の軽トラ山車も太鼓を叩く | 神輿は最初の階段を |
降り | 踊場へ |
再び階段を降り | 踊り場を経て |
三か所目の階段を降りると | 階段はここで終わる |
神社役員は神輿の後に続く | 長い参道を進み |
鳥居前まで来ると | 神輿を肩からおろし |
轅を手で持って鳥居を潜ると | 再び神輿を担ぎ上げる |
行く先にはトラックが待機 | 神輿を県道前で |
荷台に | のせ |
担ぎ手も荷台へ乗り込む | 神社役員に見送られ |
平塚秦野線を右折 | これから宵宮渡御が始まります |
鳥居を出た神輿は直ぐにトラックの荷台へのせられ、立野台へ移動する。
※宵宮渡御の様子は下記の宵宮渡御の前半と後半のページを参照
宵宮渡御(前半)
宵宮渡御(後半)
●宮総代宅 (到着20:00)
秦野駅から移動してきた一行は宮総代宅に到着し、敷地内に設けられた忌竹内へ神輿を納めると宵宮渡御が終了となる。担ぎ手は庭で休憩を取り、青年会は神輿から提灯を外してブルーシートを被せ、この日は21時近くに解散となる。
『一の屋』を出発した一行は | 突き当りを左折 |
踏切を渡り | 突き当りを右折 |
臼井戸公民館を通過し | 途中で左折 |
宮総代宅の敷地へ | 入り |
左へ向くと | 玄関前で神輿を差し上げる |
正面を出口側へ向けて | 忌竹の中へ |
神輿を納めると | 青年会会長の挨拶 |
拍子木を手にし | 一本締め |
庭で休憩を取るも | 青年会は |
神輿から提灯を取り外す | 応援の担ぎ手で賑わいます |
提灯を掛ける麻縄を外し | 捩りからバチを抜き取る |
蕨手から小鳥を抜き取ると | 馬を抜き取り |
鉄枠へ神輿をおろす | 応援団体をお見送り |
夜露や雨対策で | 神輿にブルーシートを被せる |
最後に青年会が | 休憩を取り |
会長の挨拶で解散 | 明日は7時に集合です |
このあとは本大祭準備へ。
囃子
尾尻に伝わる祭り囃子は「尾尻太鼓保存会」によって伝承され、その前身は昭和50年(1975年)に発足した「太鼓連」であった。祭礼中に演奏される曲は「マツリバヤシ」と呼ばれ、この他に「ミヤショウデン」や「ジショウデン」なども伝わっているが、現在では祭礼中に叩かれていない。尾尻の囃子は「締太鼓2個」と「大太鼓1個」で構成され、祭礼中は2台の山車で太鼓を叩きながら、尾尻地区を巡回する。戦前は笛が入っていたが、現在では伝承されていない。
尾尻の太鼓は一時期途絶えてしまい、昭和48年(1973年)には太鼓のテープを流していた時期もあったが、昭和50年の太鼓連の結成により復活した。昭和58年(1983年)にはそれまで1台だった山車を2台にし、手持ちの材木で2台目の山車が造られた。なお、現在の2基の山車は平成20年(2008年)に新調されたものである。
囃子の構成は締太鼓が2つ | 大太鼓が1つ |
大きい方の山車(正面) | 大きい方の山車(側面) |
小さい方の山車(正面) | 小さい方の山車(側面) |
囃子 |
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太鼓の練習は3月から始まり、毎週日曜日の13時から15時の2時間行われる。練習場所は八幡神社の境内で、子供を中心とした練習となる。以下に本大祭の一週間前の4月17日に行われた練習の様子を紹介する。この日は軽トラック用の山車の組立も行われた。
本大祭の一週間前 | 提灯が飾られています |
練習の為に集まる子供達 | 社殿の扉が開けられ |
雨除けに社殿内で待機 | 山車の部材が保管されています |
毛布で覆われた太鼓 | 締太鼓の台を屋根の下へ置く |
太鼓を締め | 枠へセット |
雨は止みそうもありません | 青年会が輿堂の扉を開ける |
境内へ出ずに | 軒下で練習開始 |
拝殿前にブルーシートを敷くと | 一旦練習を止め |
太鼓を | 社殿内に移動 |
社殿内から山車の部材を | 運び出す |
軽トラの荷台を掃き掃除 | 山車を |
組み立て | 看板を取り付けると |
屋根を運び出し | 柱の上に載せる |
軽トラをバックさせ | 拝殿前に移動さると |
山車を持ち上げ | 荷台へ置く |
アオリを上げて | 前後の破風を |
取り付ける | 社殿入口では |
練習を再開 | 山車には雨除けに |
ブルーシートを被せ | 縄で固定 |
境内に鳴り響く祭り囃子 | 輿堂の扉を閉め |
軽トラ山車が | 境内を出発 |
叩き手が増えてきました | もう一カラの太鼓を締め |
叩いていた太鼓と | 交換 |
尾尻には山車が2台あるので | 太鼓も二カラあります |
締太鼓の交換が終わると | 私も誘われ練習に参加♪ |
太鼓の練習は3月から始まり | 毎週日曜日に行われます |
大人が見本の演奏 | 子供たちが聴き入ります |
大人と子供が交代で叩き | 15時頃に練習が終了 |
太鼓を枠から外し | 台をしまう |
締太鼓を | 緩める |
社殿の扉を閉め | 太鼓の台はばらします |
太鼓に毛布を掛けて | 解散 |
神輿
八幡神社神輿は「高橋福」の製作で、1年半の歳月を経て昭和12年(1937年)10月に造営された。高橋氏は大正12年(1923年)以降、建具造りなどで学んだ技術を活かして神輿の修繕を請負うようになり、さらにその解体修理で得た技術から神輿製作にも取り組むようになった。宮師(工匠)として初めて神輿を造ったのは大正13年(1924年)の古峯(こみね)神社(秦野市曽屋)の子供神輿で、7基目で尾尻の八幡神社神輿を造った。
八幡神社神輿には、高橋氏が大正8年(1919年)から同12年(1923年)まで東京の深川富岡八幡宮神輿3基など、数多くの江戸神輿を見たことが活かされている。高橋氏は師匠すなわち親方を持たない独学であったが、八幡神社神輿の桝組(組物)などは何代も続いた宮師の製作品と遜色のない出来で、この神輿より宮師として認められることとなった。神輿屋根部の降棟(野筋)は江戸型を模し、錺金具は浅草の職人がこしらえた。大鳥は重さ十一貫五百(約43kg)あり、高橋氏自身が浅草より秦野まで運んだ。また、彫刻師は秦野市元町の八坂神社と同様、中村贇雄師(後の平塚市の中村仏具店)が腕を振るっている。屋根の黒漆塗は蝋色(ろいろ)塗で、心柱(本柱)は露盤より基台(台輪)まで八寸角の柱を八角にして一本で通し、はなぜんで締めて固定している。よってこの縄も大鳥より蕨手、轅にかける捩り(力綱)と同様に捩りである。
八幡神社神輿は金千円で造られ(内五百円は錺金具代金)、造営時にかかる諸経費百七十円と合わせて千百七十円の金子(きんす)がかかった。なお、氏子の協力で欅の木材の提供を受けている。当時の神輿の仕上がり方は通常の倍の費用をかけたほどの値打ちがあると評価され、高橋氏はこれ以降昭和60年頃までの間に34、35基を新調あるいは修復してきたという。
造営後に担がれた神輿は戦争中はやむなく途絶えたが、戦後になって復興した。当時は「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声で担がれ、当日夕刻より夜に掛けては「明日はねぇぞ」の掛け声に変わった。神輿には提灯を付け(神輿造営当時より続けられる)、宮付け(宮入り)されたという。しかし、昭和28年(1953年)頃にけが人が出たことにより大人神輿の渡御が中止となり、高橋氏所有のトラックに乗せられて巡幸していた。昭和57年(1982年)に「尾尻みこし保存会(青年会)」が発足し、翌昭和58年(1983年)に再び担がれることになった。平成18年(2006年)には部分修復であるが、鳳凰および屋根と台輪を茅ヶ崎神輿康にて修復した。
八幡神社神輿 | 箱台輪下の墨書写し |
鳳凰(大鳥) | 飾り金物 |
捩り掛け後 | 提灯取り付け後 |
現在は担がれていないが、津島神社の社殿内部には八幡神社所有の中神輿と子供神輿3基が保管され、中神輿は女神輿として昭和61年(1986年)から平成18年(2006年)まで担がれていた。この中神輿の製作年代は大神輿よりも古く、昭和初期とされている。一方、八幡神社の子供神輿は平成25年(2013年)までの33年間、八幡山自治会の子供神輿として担がれていたが、八幡山自治会では平成26年(2014年)から同自治会で新調した子供神輿を担いでいる。
輿堂 | 轅は縁の下へ収納 |
中神輿と子供神輿2基 | 1基は屋根が外されている |
大神輿の輿堂はかつて観音堂の横にあったが、八幡神社と御嶽神社との間に移転し、更に昭和58年(1983年)の八幡神社の社殿建て替えの際に、現在の津島神社社殿の横に移転された。
尾尻そして室町と大秦町には合わせて6つの自治会があり、それぞれ子供神輿を所有しているが、臼井戸第1自治会と臼井戸第2自治会は臼井戸町として1つの子供神輿となっているので、合計で5つの子供神輿がある。また、南が丘での渡御では南が丘ウェルシー自治会と南が丘さつき東自治会の2基の子供神輿が参加した。
小原台 | 上方町 |
八幡山 | 臼井戸町 |
新田町 | 境内に並んだ5基の子供神輿 |
南が丘ウェルシー | 南が丘さつき東 |
神輿の担ぎ方は秦野市内で多く見られる「せり」で、住宅や店舗の前で神輿を差し上げる姿が印象的である。
玄関前で豪快に差し上げ | 天井ギリギリまで上げる |
多少の障害は乗り越える | 時には家の中まで上がり込む |
掛け声 |
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本大祭準備 (開始7:00)
ここからは平成28年(2016年)4月24日の日曜日に行われた本大祭の様子を紹介する。本大祭当日は青年会が朝7時に宮総代宅へ集合し、神輿の捩りを掛け直す作業などを行う。神輿の準備が終わるとトラックの荷台へのせ、八幡神社の鳥居前へ向かう。
時刻は6時半 | 小雨が降り、肌寒いです |
玄関先でお茶を頂きます | 軽トラックが到着 |
雲行きは怪しいですが | 雨はあがってきました |
青年会の会員が集まり | 7時になると会長の挨拶 |
本大祭の渡御に向けて | 準備が始まる |
神輿を覆っていた | シートを外す |
家の中から | 弓張提灯を運び出す |
神輿から | 鉄枠を外し |
馬の上におく | 横棒を固定する縄を解く |
弓張提灯は軽トラの荷台へ | 高張提灯は竹棹にセット |
横棒を外すと | 蕨手から下側の捩りを |
外し | 屋根に上がる |
上部の捩りを | 対角線上に |
張り直す | まさか捩りを掛け直すとは |
思ってもいませんでした | 環に結ばれた捩りを |
蕨手へ回し付け | 轅の根元におろして |
緩まない様に | 結びつける |
横棒を置き | 麻縄で固定 |
昨日は気付きませんでしたが | 綺麗な仕上がり |
蕨手に小鳥を差し | バチで晒を捩じっていく |
バチを隣の晒へ通し | 捩り掛けが終了 |
時刻は8時15分 | 鉄枠を |
運び | トラックの荷台へ |
轅に肩を入れ | 担ぎ上げると |
忌竹内から神輿を出し | 宮総代宅をお発ち |
私道を | 抜け |
突き当りを右折し | 用意してあるトラックへ |
神輿を | のせる |
担ぎ手が乗り込み | お宮へ向けて出発 |
臼井戸第一の神酒所前で | 左折 |
小田急線の踏切で | 電車の通過待ち |
踏切を渡ると | T字路で右折し |
十字路の交差点を | 左折 |
室川近くの交差点を | 左折して上尾尻橋を渡る |
尾尻隧道を | 抜け |
バス通りを南下 | 秦野総合高校入口の |
交差点を左折 | 秦野赤十字病院入口の |
交差点を直進し | マクドナルド前の歩道で停車 |
馬と | 高張提灯をおろす |
どうやら | お宮には |
行かないようです | 神輿を荷台からおろし |
マクドナルドの敷地へ入ると | 店舗の南側に |
神輿をおろす | 青年会は |
お宮へ移動 | 昭和44年の幟です |
例大祭と発御祭・発御の儀 (開始8:00、終了8:40)
八幡神社の境内には7時30分頃から、各自治会の計5基の子供神輿が集まり、社殿前や階段では掃き掃除が行われる。8時になると各団体の代表者が社殿へ上がり、例大祭の神事が執り行われる。8時30分からは子供神輿の前で発御祭が執り行われる。
平成28年(2016年)では神輿の準備を取材したため、ここでは平成29年(2017年)4月23日(日)に取材した子供神輿宮出し前の八幡神社の様子を紹介する。
2016年は取材できなかった | お宮の取材にやって来ました |
7時半頃になると | 1台の軽トラが到着 |
一番手は上方町です | 子供神輿を荷台からおろし |
担ぎ上げて | 階段をのぼり |
社殿前に | おろします |
階段下には次の軽トラが | 二番手は臼井戸町 |
階段をのぼり | 社殿前におろす |
7時40分頃から境内では | 掃き掃除が始まる |
ここで出雲大社の宮司が到着 | 階段も掃き掃除 |
境内の裏手からは | リヤカーに載せた子供神輿が |
三番手は八幡山 | 馬の上に神輿をおろす |
輿堂では青年会が作業開始 | 階段下には子供神輿が到着 |
四番手の小原台が | 階段をのぼっていく |
社殿の裏手からは | 新田町の子供神輿が到着 |
小原台は | 境内に上がり |
社殿前に | 輿をおろす |
新田町は | 台車のまま社殿前へ移動 |
境内に揃った5基の子供神輿 | 8時前になると |
関係者が社殿へ上がり | 例大祭が執り行われる |
式典中は各自治会の | 子供たちが |
続々と | 到着 |
6自治会もあるので | 子供も沢山集まります |
保護者の方たちも | 多数集まります |
8時25分頃に神事が終わり | 出席者は境内へおりる |
宮司も境内へおり | 参加者に挨拶 |
これから発御祭が始まる | 最初に神職による修祓 |
社殿側をお祓いし | 子供たちもお祓い |
続いて奥の新田町から | 順番に |
子供神輿を | お祓い |
最後の臼井戸町が終わると | 続いて祝詞奏上 |
続いて各自治会の代表の | 子供たちに玉串が配られ |
神職の説明を受けて | 玉串を子供神輿に置くと |
二拝 | 二拍手一拝 |
続いて宮総代が | 玉串奉奠 |
発御祭が終わると | 最後に宮総代の挨拶 |
子供神輿宮出し (出発8:40)
ここからは再び2016年4月24日(日)に行われた本大祭の様子を紹介する。発御祭が終わると子供神輿が宮出ちし、鳥居を出るとマクドナルド前で一旦子供神輿をおろす。
参道を進み | 階段を上がると |
境内は | 物凄い人込みです |
本大祭の式典を終え | 神主の挨拶 |
各自治会の子供神輿が勢揃い | 8時40分頃に |
子供神輿が宮出し | 一番手は |
小原台の子供神輿 | 宮出しは大人が担ぎます |
二番手は | 上方町 |
三番手は | 八幡山 |
四番手は | 臼井戸町 |
最後の五番手は | 新田町 |
子供神輿は | 階段を降り |
参道を進んで | 鳥居を潜る |
鳥居の先には | 軽トラ山車が待機 |
祭りばやしに迎えられ | 宮出しした各自治会の |
子供神輿はマクドナルド前の | 歩道に輿をおろす |
先導の太鼓の山車が | ユニクロの駐車場を利用して |
Uターン | 先頭に山車を止め |
大きな提灯を | 山車に取り付ける |
本大祭渡御
●鳥居前 (出発8:50)
お宮をお発ちした子供神輿はマクドナルド前に並ぶと、青年会会長の挨拶で大人神輿と共に鳥居前を出発する。
神輿と山車が全て揃うと | 8時50分頃に |
青年会会長の挨拶 | 青年会が大人神輿に集まり |
肩を入れて | お発ち |
宮総代と青年会長は玄関前へ | 神輿は |
Uターンし | 玄関へ向かうと |
本大祭最初の差し上げ | 神輿をおろして |
通りへ向かう | 先導の山車が出発 |
平塚秦野線に出て | 右折 |
大人神輿の次は子供神輿 | 一番手は小原台 |
二番手は上方町 | 宮出しと同じ順番で出発 |
三番手は八幡山 | 次々と県道へ出て行きます |
四番手は臼井戸町 | どの子供神輿も |
立派です | 最後の五番手は新田町 |
最後に軽トラ山車が出発 | 長い一日が始まります |
八幡神社の鳥居前を出発した一行は尾尻地区を渡御していく。
※本大祭渡御の様子は下記の本大祭渡御の前半と後半を参照
本大祭渡御(前半)
本大祭渡御(後半)
●宮入り (到着19:05)
八幡山の神酒所を出発した神輿はお宮の正面の鳥居から宮入りし、参道を一気に進んで社殿前まで向かう。先導していた山車ははちまんやま緑地で太鼓を叩き、軽トラ山車は裏の鳥居から宮入りして境内で太鼓を叩いて神輿を迎える。神輿は境内で練ったのち社殿前で神輿を差し上げ、輿をおろすと直ぐに神主により御霊が抜かれる。
お宮はもう直ぐです | 神輿は |
左に旋回し | 歩道へ上がると |
お宮へ向かって | 最後の直線 |
一旦肩からおろし | 鳥居を潜って宮入り |
再び担ぎ上げ | 参道を直進 |
社殿へ向かって進んでいく | 青年会会長は一足先に社殿へ |
尾尻の八幡神社は | 参道が長いです |
上の境内では観客が | 神輿の到着を待ちます |
軽トラ山車が太鼓で囃す | 青年会会長は社殿前で待機 |
最後の階段を | 登り切った神輿は |
社殿前の広場へ | 勢いよくなだれ込む |
境内端から | バックで引き返し |
その後は | 社殿前で |
時計回りに | 回転 |
社殿前で | 荒れ狂う神輿 |
尾尻に雨は付き物ですが | 天候は大きく崩れることなく |
祭礼は予定通りに実施 | 境内で暴れた神輿は |
社殿の方を向き | 向拝(階隠)に前棒を入れ |
豪快に神輿を | 差し上げる |
ここで提灯が燃え上がり | 叩き落とすと踏んで消火 |
三本 | 差し上げて |
社殿を離れると馬を入れ | 神輿をおろして無事に宮付け |
宮付け後は | 頭を下げ |
神主により | 御霊が抜かれる |
青年会会長が轅に上がり | 最後の挨拶 |
三本締めて | 長かった神輿渡御を終える |
●還御祭・還御の儀 (開始19:25)
神輿が宮付けされると担ぎ手は境内で食事を取り、青年会は神輿をしまう準備を行う。社殿内では各団体の代表者が集まり、還御祭が執り行われる。
馬を轅下にずらし | 青年会は休む間もなく |
提灯を外す | 応援団体は境内で直会 |
外した提灯は | 中のローソクを消す |
社殿内では代表者が集まり | 最後の神事が執り行われる |
祝詞奏上 | 玉串拝礼は宮総代 |
神輿保存会 | 太鼓保存会 |
5分程で神事を終え | 解散 |
境内では神輿の作業が続き | 捩りを外していく |
山車からは大太鼓と | 締太鼓を運び拝殿内へ |
青年会は応援の担ぎ手を | お見送り |
鳳凰を抜き | 社殿内へ運ぶ |
神輿の作業を終えると | 担ぎ上げて |
社殿前で | 旋回 |
輿堂へ向かい | 神輿を納めると |
轅を抜いて | 移動 |
輿堂へ | 備品をしまう |
抜いた轅は | 縁の下へ |
もう一本も | しまう |
輿堂の | 扉を締め |
施錠すると20時頃に | この日の片付けが終了 |
青年会は社殿内へ上がり | 会長の挨拶で |
乾杯 | 1時間半ほど直会を行い |
三本締め | 明日は片付けがあります |
社殿の扉を閉め | 照明を消して解散 |
青年会は神輿を輿堂へ納めてから社殿内で直会を開くと、社殿の戸締りと境内の照明を消して解散となる。翌日の4月25日の月曜日の午前中に片付けを行い、太鼓保存会の反省会が27日の水曜日に、青年会の反省会が29日の金曜日にそれぞれ催された。
青年会は臼井戸会館で反省会 | 大変盛り上がりました |
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