及川おいがわ

神社の紹介

  「八幡神社」を天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』でみると及川村の鎮守「八幡社」で、末社には「淡島社」と「稲荷社」があり、天正19年(1591年)には社領1石の御朱印を賜った。当社を管理する別当「西光寺」が隣接していたが明治初期に火災に遭って廃寺となり、北方の「実相院」に寺号のみ移して現在に至っている。
  縁起および棟札によれば八幡社は弘法大師の建立あり、建久中(1190〜1198年)に本多七郎道本が、弘治3年(1557年)には中尾丹後守が再建したという。また寛文2年(1662年)に再建、宝永2年(1705年)に及川村の領主関宿藩主牧野氏が再建している。嘉永元年(1848年)に全焼し同年12月に再建され、明治4年(1871年)に上知、明治6年(1873年)には村社に列した。大正3年(1914年)12月に拝殿を修築し、昭和4年(1929年)9月には幣殿および覆殿を修築、昭和8年(1933年)8月25日には神饌幣帛料供進神社に列した。
  神体は僧形八幡神である。

2008.6.72008.6.7

  境内地には厚木市域内で只1社となった「淡島神社」が祀られており、御神体は明治4年(1871年)に奉献された女神像である。これは波利才女と称されており、毎年2月8日に婦女子の和服裁縫の上達祈願が行われ、特に針供養の行事などがあった。江戸時代には淡島願人と称し、旅から旅への乞食坊主が小さな箱を背負って歩き、その箱の中ほどに神棚があって色々な布を付けて持ち回り、淡島様の振興を説いて回り女子信仰者を得ていた。
  この他には明治15年(1882年)5月25日創建の「蚕影神社」も祀られており、大正14年(1925年)3月2日に再興されている。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の8月15日であった。八幡神社の当り日は9月1日、十二神社は4月1日であったが、昭和30年代から農閑期の4月第1土曜日に行うようになった。現在は4月の第1日曜日に十二神社と隔年交代で行っている。
  昔は神楽や芝居もやったが、現在はカラオケや踊りなどである。

囃子

  



神輿

  子供神輿が及川地区内を練り歩き、子ども会育成会が中心となって行う。



及川の歴史

  旧及川村は厚木市域の中央やや北寄りに位置し、村域は荻野台地と飯山台地の末端部にあり、ほぼ中央には荻野川が、南境には小鮎川が流れている。この2川はやや広い沖積地を作って及川村最南部で合流している。荻野川と小鮎川に沿った沖積地が水田で、台地上は広く畑であった。狭い村域で比高差はあまりないものの、これら2つの台地と2本の河川によって全体的には変化のある地形を呈している。東側村境を甲州道が通り、北側から西側村境を糟屋道が通り、中央部には順礼道が東西を横断している。周辺は、東側は「妻田村」、南側は小鮎川を隔てて「林村」、西側は「飯山村」、北側は「三田村」・「下荻野村」に接している。
  永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「(中郡)及川」と記載され、天正18年(1590年)の「豊臣秀吉禁制」には「(相模国大中郡)及河」と記載されている。旧集落は荻野台地の西側、飯山台地の東縁・南縁に点在している。『風土記稿』では小名として「小山」・「久保」・「瀬戸」・「三川尻」を載せているが、伝承調査ではこの4小名の他に「カナヤシタ」・「カミアイ」・「シモアイ」の小集落名が採集されている。また、カミアイ・シモアイは「オモテオイカワ」と総称されるが、これは道祖神銘にある「及川邑表上間」に関連していると推測される。近世の支配は幕府領・旗本領・藩領等の3〜4給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は79戸、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は69戸であった。
  明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、下川入村・棚沢村・妻田村・三田村・林村と「三田村外五ヵ村組合」を組織し、昭和21年(1946年)にこれら5村と合併して睦合村大字及川となり、昭和30年(1955年)の合併後に厚木市大字及川となる。


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