田端
貴船神社
建久年間(1190〜1198年)の創建と伝えられる「貴船神社」の社殿の規模は明らかではないが、万治2年(1659年)の棟札が残されており、その墨書によれば万治2年10月21日に「貴船大明神」の宝殿を再興したとあり、少なくともそれ以前には存在していたことがわかる。棟札にはさらに「別当、医王院」とも記され、すでに江戸時代初期の段階で別当支配が確立していたことがわかるとともに、「郷中安全万民快楽」と貴船大明神が鎮守的存在であったことをも窺わせる記載となっている。棟札で2番目に古いものは延宝7年(1679年)で、この他にも下記に記すような棟札が現存している。
元号(西暦) | 社名 | 内容 | 別当 | 住職 | |
1 | 万治2(1659)年 | 貴船大明神 | 宝殿再興 | 医王院 | 慶誉 |
2 | 延宝7(1679)年 | ― | |||
3 | 宝永3(1706)年 | 秀善 | |||
4 | 明和5(1768)年 | 宝殿造立 | ― | ||
5 | 寛政10(1798)年 | 貴船神社 | 記念 | 諦実 | |
6 | 慶応2(1866)年 | 貴船大明神 | 拝殿再建 | ― | |
7 | 江戸期 | 宝殿再興 | ― |
江戸時代の田端村の神社について記録したもののなかでは、文政7年(1824年)の『相模国高座郡田端村差出長』が村内の神社の概要を知ることのできる史料としては最も古いもので、「鎮守貴船宮社地十五間四方、社内釣鐘一口、年々祭礼九月二十九日云々」と記されている。これは表書に「是は文政七申年九月廿四日御改の砌、差出し」とあるように、当時幕府によって進められていた『新編相模国風土記稿』編纂のための調査に際して、田端村が調査の役人に対して提出したものの控えである。これに基づいてできたのが『風土記稿』の田端村の項であり、これらは田端村の神社の全体像を示す唯一の史料といってよい。他に安政2年(1855年)作成の『家数人取調帳』等が残されているが、寺院の記載のみで神社に関するものはない。
『風土記稿』によると江戸時代の田端村の神社は「貴船社」・「八幡社」・「稲荷社」の3社で、このうち貴船社に関しては「鎮守なり、例祭九月二十九日、医王院持、享保十五年の鋳鐘を掲ぐ」とあるように村の鎮守としている。『風土記稿』にはその正確な神社の規模等についての記載はないが、これら3社を実質的に支配していた者に関する記載はみられる。それによると貴船社は「医王院持」となっており、古義真言宗の寺院で岡田村安楽寺の末寺であった村内の医王院が支配していたことがわかる。この貴船社の別当支配の様子は慶応3年(1867年)3月に貴船社に対して中畑一反一八歩が信者によって奉納されるが、その際の証文の宛所が「貴船宮様御別当所」となっていることからも窺い知ることができる。八幡社は「万部寺持」で、村内にあった法華宗(日蓮宗)身延山久遠寺末の万部寺が支配していた。また、稲荷社は「医王院持」で、貴船社の支配と同様に医王院が支配していたことがわかる。こららのことから田端村の神社には専従の神職の存在を確認することはできず、神仏分離以前には多くの神社で一般的であった寺院による別当支配という形態で、神社の維持運営がなされていたことがわかる。
次に『風土記稿』の元となった『差出帳』から、村の側が調査・把握していた段階での神社の記載内容についてみていく。『差出帳』には『風土記稿』と同じく「鎮守貴船宮」・「稲荷小社」・「八幡宮小社」と3社が記され、やはり貴船を鎮守としていることに変りはないが、いくつかの点で『風土記稿』よりもその実態が明確になる。ひとつは貴船の社地面積を「社地拾五間四方」とし、稲荷・八幡には「小社」と記してその規模について明らかにしている点である。また、それぞれの神社の支配につていもはっきりと「支配」という表現がなされ、これらは僅かな点であるとはいえ『風土記稿』からは知ることができないものである。
地租改正(明治7,9年頃)の際に作成された資料に『地引絵図』と『田畑其他反別取調野帳』があり、ちなみに神奈川県での『地引絵図』の作成は明治7年(1874年)、『田畑其他反別取調帳』の作成は明治8年(1875年)から始められている。田端村にもこの両者が残されており、田畑自治会蔵の『田畑其他反別取調帳』と鈴木正雄氏蔵の『改正反別地引絵図』から神社の正確な所在地と土地所有の構成を知ることができる。これらによると鎮守であった貴船社の所有する土地はニ筆で、ひとつは字青柳八ニ四番地にあった神社境内地(神社そのものがあった場所)であり、その面積は七畝三歩。もうひとつは境内地に隣接して字青柳八ニ五番地に山林ニ畝を所有していた。八幡社は境内地のみでその場所と面積は、字青柳八ニ六番地に三畝一ニ歩である。この貴船社と八幡社は『改正反別地引絵図』でみると隣接しており、そのいずれもの背後になるように貴船社の山林が鎮守の森としての景観を醸成するような形で存在している。稲荷社は字青柳八三四番地に一畝一五歩であったが、この段階での社地は既に畑になっていた。こうしてみると田端村の場合、3社のなかで所有する土地面積が最も大きな貴船社が鎮守であったことがわかる。なお、これらの神社地の所有権は明治初年の上知によって官有地となっている。
明治41年(1908年)11月に神奈川県知事宛に出された田端の神社合祀に関する願書『神社合併願』は、田端にあった神社5社を貴船大神1社に合併するという内容のものである。この時、合併対象となっているもののなかに、若宮社境内地に存在していた稲荷社が被合併対象として載せられている。これにより、明治初期までは少なくとも社地を所有する形で成立していた小さな神社が、その後境内地へと移転し、最後には合併対象となっていく様子をこの稲荷社から知ることができる。合併の理由には、所有財産がないことによる維持困難をあげている。
明治45年(1912年)の『明細書』によれば合併が行われたのは明治43年(1910年)2月1日で、田端地区の無格社であった「若宮神社」と貴船大神の境内3社の「稲荷大神」・「日枝大神」・「御嶽大神」を村社であった「貴船大神」へ合祀したことが記されている。また、明治41年11月の『若宮神社財産処分方法書』によれば、この時合併された若宮神社の社殿は「取崩シ」、使用に絶えるものは「貴船大神修繕用」、あとは「消却」処分としている。神社地は合併後に境外地として払い下げを願い出るとしており、『明細書』によれば実際に境外地百二坪として明治45年の段階では、かつての若宮社社地は貴船大神に編入されていたことがわかる。
こうして、貴船大神の社地は江戸時代以来の244番地・245番地の合計211坪余に加え、元若宮神社社地の246番地102坪を吸収する形で成立した。また、『明細書』によると、明治45年2月15日には下大曲の「下大曲神社」をもその後合祀した。大東亜戦争後の社格改廃により、現在は神社本庁所属となる。
祭神については、貴船大神が「加具土命(かぐつちのみこと)」、稲荷大神が「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」、若宮八幡宮が「譽田別命(ほんだわけのみこと)」と「大雀命(おおさきのみこと)」、日枝大神が「大山咋命(おおやまくいのみこと)」、御嶽大神が「日本武命(やまとたけるのみこと)」をそれぞれ祀っている。
貴船神社 | 鳥居 |
由緒 | 手水舎(御手洗) |
狛犬 | 狛犬 |
拝殿 | 本殿・幣殿 |
殉國碑 | 関東大震災で倒壊した鳥居 |
田端土地改良記念碑 | 鐘楼 |
田端地域集会所 | 境内 |
内陣
貴船神社の本殿と幣殿との境には間仕切りがなく、社造りの内陣が安置されている。内陣の御霊宮前の向拝作りは高さ33cmの台座の上に、更に30cmの土台があり、そこを基盤に向拝の前柱が建てられている。主柱の高さは1m17cmである。五段の階(きざはし)が設けられ、底部の長さは50cm、1段の高さは5cm、段の幅は1m25cmである。階の両側には三段の高欄が付けられ、階を昇れば御霊宮の回廊となる。また、向拝の板木で葺かれた屋根幅は1m96cmで、36本の二段垂木で支えられている。
正面の虹梁上には鳳凰が、その鼻には獅子頭の彫刻があり、回廊の止め戸は牡丹図、そして向拝垂木止めも同様に牡丹の彫刻である。これらは何れも岩絵の具によって彩色されているが、御霊宮との材質が違うことから後世に取り付けられた可能性も考えられる。
御霊宮は向拝と連なって四柱に囲まれ、板張りにして前柱は二扉で開閉できる。延屋根を二重垂木で受け、下垂木が34本、上垂木が44本、正面屋根は2m35cm、横屋根2m45cmの構築である。
社造りの内陣 | 柄鏡 |
台座の彫刻(神紋) | 虹梁正面の鳳凰 |
向拝柱の獅子 | 垂木止め |
回廊奥の | 飾り戸(止め戸) |
台座の彫刻された神紋は「竜胆紋(りんどうもん)」で、この紋章は源家の家紋であった。竜胆紋は平安時代に貴族の間で愛好された紋であり、『源氏物語』や『栄華物語』によく登場する上流階級の衣装文様や調度品、車や輿などの装飾に多く用いられた。紋章の基本は花と葉を組み合わせたものであり、葉が笹に相似していることから別名「笹竜胆」と呼ばれていた。
竜胆紋を用いたのは源氏一族であり、江戸時代になると清和源氏を遠祖にしていた武家がすべて使っていた。また、鎌倉市はもと桓武平氏・千葉氏の家紋に似ている『月星』を市章にしていたが、戦後になって源氏の幕府創設の地に由来する、源氏の代表家紋である笹竜胆に改めた。以上のことから笹竜胆紋を遺す貴船神社は、源氏に縁のあった社と考えられる。
神輿
貴船神社には子供神輿が1基あり、寒川神社が子供神輿を新調する際に、それまで担がれていた古い神輿を昭和58年(1983年)7月5日に譲り受けたものである。寒川神社から子供神輿を譲り受ける前に、田端では手作りの子供神輿を担いでいた。
子供神輿(正面) | 子供神輿(側面) |
宵宮
例大祭前日の宵宮では8時頃から準備が始まり、夜は18時頃から21時30分頃まで囃子やカラオケなどの催しが行われる。平成23年(2011年)は3月11日に発生した東日本大震災を考慮してカラオケは中止し、終了時間も20時までと短縮された。
準備された囃子の車屋台と | 境内の櫓 |
集会所前と | 鳥居横には掲示板を設置 |
16時頃に囃子がお宮を出発 | 飾り付けを終えた子供神輿 |
社殿横に設置されたテント | 田端地区を巡回した車屋台が |
お宮前に戻り | 囃子方は車屋台を下りる |
社殿から太鼓を出し | 櫓には囃子方が上がる |
締太鼓や | 太鼓の台 |
そして大太鼓を運び出し | 櫓の上へ渡していく |
太鼓の設置が終わると | 囃子方は櫓を下りる |
社殿はお宮の受付場所となり | 名前などを記入すると |
集会所前の掲示板へ貼る | 御祝儀にはお返しを渡す |
テント下で休憩をとり | 日が暮れると提灯に |
明かりを | 灯す |
18時頃になると櫓に | 囃子方が上がり |
笛の合図で | 田端囃子が始まる |
囃子には鉦も入り | 大太鼓は立って叩く |
社殿から紐締めの太鼓を出し | 締太鼓を3つ並べて叩く |
途中で囃子を止め | 櫓を降りると |
テントで食事を取る | 私もいただきました |
休憩後も囃子が演奏され | 20時前に終了 |
太鼓を櫓から下ろし | 社殿へしまう |
例大祭
『風土記稿』には田端村の鎮守である「貴船社」の例祭日を9月29日としている。近代の貴船神社に関しては「貴船神社文書」と「田端自治会文書」の双方に多数の文書が残され、明治20年以降の祭礼関係の資料が含まれている。明治20年後半と30年代前半には祭日が10月になっているが、明治35年(1902年)以降はほぼ9月29日の祭日が守られている。
明治30年(1897年)の日付で「舞台小屋修繕諸色村集帳」と題する一冊があって、すでに境内に舞台があったことが知られる。明治41年(1908年)の「村社建物宝物什物調帳」には「取崩舞台」と舞台材料を入れる小屋のあったことが見える。これを昭和7年(1932年)に改築して(「神楽殿新設諸支払」)、亜鉛葺の木造で神楽殿としたらしい(「貴船神社諸願届書類」)。
現在は9月の第4週の土曜日に大祭が行われ、午前中に式典が執行、午後に田端地区を子供神輿と祭囃子の車屋台が巡行する。式典は寒川神社の宮司と権禰宜により貴船神社の社殿内で10時から行われ、@修祓→A宮司一拝→B献饌→C祝詞奏上→D玉串拝礼→E撤饌→F宮司一拝の順番で神事が執り行われると、最後に境内へ移動して子供神輿や参列者のお祓いをして10時30分頃に終了となる。
大祭当日は9時前から | 露店の準備が進む |
宵宮でのし紙の貼られた櫓と | 集会所前の掲示板 |
9時10分頃に寒川神社の | 権禰宜が貴船神社へ到着 |
責任役員がテーブルを | 子供神輿の横へ置き |
巡行で使う道具を並べる | 9時半頃になると車が1台到着し |
寒川神社の宮司が到着 | 責任役員と挨拶を交わす |
式典の準備を進める権禰宜 | 責任役員は受付の対応 |
境内では | 子供が神輿前で記念撮影 |
式典の出席者が続々と | 受付を済ませて社殿へ上がる |
集会所で着替えを終えた宮司と | 権禰宜が社殿へ上がる |
残りの出席者が | 社殿へ向かい |
社殿へ上がると | 10時頃から式典開始 |
社殿での神事は終了し | 宮司が最初に社殿を出ると |
集会所へ向う | 続いて権禰宜が社殿を出ると |
出席者が境内へ集り | 子供神輿に一礼 |
最初に神輿をお祓いし | 続いて出席者を |
お祓い | 最後に神輿巡行の道具を祓い |
30分程で式典は終了し | 集会所で直会となる |
この後は田端地区巡行へ。
余興
18時30分からは境内の集会所にて余興が催されるが、2011年(平成23年)は5年ぶりに劇団勝太郎一座が田端にて公演された。時代劇やマジックショーなどの演芸が21時30分まで続けられ、演芸の前後と各プログラムの合間の休憩時間には囃子が演奏される。
劇団勝太郎一座の公演までは | 櫓上で田端囃子が披露される |
露店は金魚すくいと | 焼き鳥、揚げたこ焼 |
おもちゃ屋とフルーツ水飴の5店 | お囃子の演奏を中断し |
勝太郎一座の最初のプログラムは | 寿 三番叟 |
10分程で幕が閉じ | 再びお囃子が始まる |
続いては時代人情剣劇 | 女国定忠治 山形屋ゆすり |
19時を過ぎると人出も増え | 境内は賑やかに |
芝居の見物客も | 増えていきます |
芝居は終盤を迎え | 櫓上では囃子の準備 |
幕が閉まると | 再びお囃子が披露される |
田端貴船神社祭典の懐古
ここでは『郷土さむかわ 第十四集』の中で木内一郎氏が記載した、「田端貴船神社祭典の懐古」から一部を抜粋する。
「 私の青少年時代(大正十五年まで)を省みると、田端貴船神社の祭礼は、九月二十八日が宵宮、二十九日が例大祭となっており、二十八日は部落総出で幟をたてたり、舞台造りをする。今のように常設の集会所を使用するのと異なり、祭礼の都度舞台を組立てるもので殊に正面の梁は、長さ約七・二メートル、巾三十六センチメートル、厚さ十二センチメートルほどで、この重い梁を上げる作業は細心の注意を要し主として大工職の三堀さんの指導によってあげられていた。二十九日の祭礼当日は、午前中青年会員が荷車を引いて各戸を廻り筵(各自の名前をつけておく)一枚宛を集めこれを舞台の前に敷き観覧席としたものである。各家庭では来客(当時は泊り客が多く長持ちから寝具などを取り出して用意した)、ご馳走は寿司、ちらし、里芋など野菜の煮物、魚は須賀や南湖の魚屋が売りに来るのでそれを求め、刺身、煮付け、お赤飯を炊く家もあり、更にその年によって、神楽または芝居を奉納することがった。この神楽や芝居には中入りがあり、この合間に各家庭から夜食として寿司やちらしなどを重箱に入れて運び中入りのとき食べる習慣になっていた。夜になると肌寒さを感じるようになるので袷の着物を着ていたように思われる。
祭礼が晴天に恵まれて済めば何よりであるが、台風の季節でもあり雨天のため日延べになることも少なくなかった。殊に貴船神社の舞台は雨にあわなければしまえないとさえ云われていた。祭礼の夜にはたくさんの店が並び今より賑わっていた。大正の初めころは小遣いを五銭くらいもらってよろこんで祭りに行ったもので、このお金で何を買ったかは記憶にない。貴船神社の祭礼は、寒川神社(寒川さんと呼んでいた)の祭礼と共に子どもの時代には楽しい行事で、寒川さんへは毎年欠かさず往復徒歩で参拝し、その想い出は尽きない。
現在のように、テレビで歌舞伎座からの芝居を見る事ができ、伴奏に合わせて華やかな歌手の歌謡曲を聞くことのできる時代とはあまりにもかけ離れた過去となってしまった。貴船神社の祭礼は、九月二十八日、二十九日に執り行われるのが例であるが、古文書によると、明治二十九年から同三十四年までの四年間は、毎日十月九日が宵宮、十日に祭典が斎行された旨の記載がある。その祭礼の斎行とその変遷などについて、田端古文書を調べたところ、明治二十年九月二十九日以降のものばかりで、それ以前の古文書は見当たらなかった。そこで今回は、明治二十年以降の祭礼の斎行などの変遷について古文書により知り得たものを次に例記することにした。
現在と当時の物の値段など比較しながらお読みいただければ幸いである。
一、明治二十年九月二十九日の祭典を記録する帳簿としては、(一)貴船大神祭礼入費帳、(二)村社祭典村集帳の二冊で、このような帳簿はその後の祭典にも作成されている。
(一)貴船神社祭礼入費帳によれば、祭典には神楽を奉納したので、神楽金四円、ほねおり五十銭、神楽人宿料二十八人分、金五円〇四銭(一人十八銭の割)が支払われているが、この止宿先が何処であったのか記載がなくわからない。当時は交通の便が悪く神楽終了後帰宅することが無理であったのではなかろうか。この他に酒(当時は一升二十銭)十二升、うち巡査用として一升、石油(当時一升十銭五厘)はランプ用として六升、などその他を併せると支払い合計は金二十一円十九銭、収入としては花金五口計一円二十五銭となっている。
(二)村社祭典村集帳によると、寄付者は九十八人で一戸当り一銭から二銭五厘までで合計金一円六十九銭五厘となっている。
この祭典の収入・支出金については当時の宮総代人岩田七右衛門外五名の方から部落委員長鈴木岱篤さんに報告され、不足分金十八円二十銭は部落費より支出されている。
・・・中略・・・
六、明治三十二年度
(一)明治三十二年十月十九日付貴船神社祭典支払帳によれば、芝居願人岩田伊之助、石黒鶴之助、広田熊造、石黒嘉十郎、亀田程、石黒武助の皆さんからの申出があり部落役員楠谷幸之助、鈴木曽右衛門、宮総代人相田清次郎、木内七郎、木内弥五郎、木内孝一郎、石黒清造、鈴木保太郎の皆さんが協議の結果、本年は芝居を奉納することに決まったことが記録に明らかになっている。そして支払面としては、芝居給料金四十円、俳優ほねおり料金一円五十銭、芝居荷物引取り舟料として金三円、神主能条さん礼金二十銭、外に畳表二十枚、代金十四円二十五銭、上酒十六升(一升三十五銭)代金五円五十銭、木炭一俵四十三銭、縄三十房代金三十銭、豆腐十九丁(一丁三銭)五十七銭、白米四斗代金四円四十八銭(一升十一銭二厘)、糯米二斗代金二円六十銭(一升十三銭)、その他購入物品代を併わせ支払金合計は百二十一円五十一銭にして、収入金としては、物品払畳表五十枚分代金十二円五十銭(一枚二十五銭の割合)、卯色綿九尺五寸代金十一銭、切縄代八十二銭、鉾竹残り物代金三十一銭七厘にしてこの収入金合計金十三円七十四銭七厘、芝居花代合計金七十五円五十銭、この合計金は八十四円二十四円二十四銭七厘となり、この収入金を前記支出金より差引くと支払金は金三十七円二十六銭四厘となる。
(二)明治三十二年十月十九日付貴船神社祭典村集帳によると部落内の寄付者は九十三名合計金十一円四銭にして、その内訳は一銭以上九銭まで五十六名、十銭以上十九銭五厘まで三十二人、二十銭以上二十七銭まで五人となっている。以上祭典の収入金、支払金については、宮総代人から部落役員鈴木曽右衛門、楠谷幸之助両氏に報告がなされ、このことは、明治三十二年十月十九日付楠谷幸之助氏作成
一、証乙第三十七号「証」と題する書面に
一金壱百二十一円五十一銭一厘
但し貴船社祭典芝居に付芝居師給料及び諸物品購入代金
右の通り相違無之候
二、証甲第十六号「証」と題する書面に
一金八拾四円弐拾四銭七厘
但し貴船社祭典芝居の際花代及び物品払物代金
右の通り相違無之候
三、証甲十七号「証」と題する書面に、一金拾壱円四銭
但し貴船社祭典芝居に付き村集現金
右の通り相違無之候
この三通の書面により収入金、支払金がそれぞれ正確であったことが照明されるであろう。
追記
先人たちの貴船神社の斎行については、今のように奉納金ですべてが賄えるのとは異なり祭典の都度その費用に充てるため部落の方々から寄付金を募るということは並々ならぬ苦労があったであろうと推測される。しかし先人たちの努力と田端部落民の伝統的な崇敬心と相俟って毎年盛大に祭典が執り行われてきたことを今私たちはそれを伝承し実行しているものである。更にこれを子孫に伝えなければならないと痛感する一人である。」
田端囃子
田端では80有余年にわたり祭り囃子が中断されていたが、茅ヶ崎市の大曲から指導を受け、昭和49年(1974年)に「田端太鼓愛好会」を発足させた。初代会長には石黒準之助氏、指導者には宮川忠蔵氏と大柳友吉氏があたった。お宮の拝殿にころがっていた太鼓を造り直し、大曲のお年寄り3人位に来てもらい現在の太鼓を教えてもらったが、大曲は自分のところの太鼓とは少し変えて教えたようである。これは大曲だけではなく、昔の人は自分の地区の囃子を全く同じようには伝えなかったようである。その後は消防の若い者に太鼓を教え、さらに育成会の者に教え、現在の田端の囃子に至っている。
大曲から囃子を習う以前に、どのような囃子が田端に伝わっていたかは定かではないが、一説では田村囃子のような囃子ではないかという見解もある。これを裏付ける話に、田端から藤沢の方へ婿に行った者が太鼓が上手く、婿入り先へ教えたのが田村の太鼓らしいという。
現在の田端囃子は「新囃子(しんばやし)」と呼ばれ、「大太鼓1」・「締太鼓3,4」・「笛1」・「鉦1」で構成され、曲目には「はやし」・「かいちがい」・「しょうでん」・「かんだまる」・「鎌倉」・「しちょうめ」・「きざみ」・「はやし」がある。祭礼当日は子供が中心に演奏しているが、はやし以外の曲を子供達が練習していないため、現在ではほとんどはやしのみが演奏されている。この「はやし」は平塚市や伊勢原市で叩かれているものと非常に近似しているが、曲の最後に叩かれる「切りバチ」は田村囃子で叩かれているものと同じである。また、笛は円蔵から教わり、曲の切り替わりで笛が入らない場合は、大太鼓が合図を出している。
昭和56年(1981年)には神奈川県ふる里まつりに寒川代表として出場し、昭和60年(1985年)には第10回関東郷土芸能おはやしコンクールで銅賞を獲得。また、平成10年(1998年)には湘南銀河大橋開通式典にも参加をした。
車屋台には | 締太鼓が3個と |
大太鼓が1個 | 巡行中の車屋台 |
境内の櫓での様子 | 大太鼓は立って叩き |
鉦と | 笛が入る |
囃子 |
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田端地区巡行
午後からは子供神輿と囃子の車屋台が貴船神社を出発し、8箇所の休憩所を経由しながら田端地区を巡行していく。
●宮立ち(出発13:15)
13時頃から巡行に参加する関係者が境内に集合し、一本締めをした後に貴船神社を出発する。
露店は鳥居両側に2店と | 鐘楼横に2店 |
そして鳥居正面に1店の計5店 | 境内では子供神輿を持ち上げ |
正面を鳥居側に旋回させて | 馬の上におろす |
13時頃になると | 参加者が集り始める |
社殿からは丸棒を2本持ち出し | 輿棒の前後へ置くと |
輿棒を吊り上げるように | 晒で結び付ける |
13時10分になると | 責任役員の挨拶があり |
豆絞りを | 子供達に配る |
囃子方は車屋台へ向かい | 子供神輿では一本締め |
子供達が輿棒につき | 神輿を担ぎ上げると |
いよいよ | 宮立ち |
鳥居を潜り | 田端地区を巡行していく |
●休憩所1(到着13:30、出発13:40)
神社を出発した一行は車屋台を先頭に、田端地区の東側を巡行していく。最初の休憩場所は民家の庭で、子供神輿では到着と出発時に一本締めを行う。
一行は神社を出発すると | そのまま直進し |
バス通りに突き当たると | 左折 |
直ぐに右側の道路に入り | 東へ向って進んでいく |
矢島公園前を通過し | 民家の間を進む神輿 |
暫くすると突き当りを左折し | 北へ向って進むと |
直ぐにT字路に差し掛かり | 先導する車屋台が先に左折 |
子供神輿は一旦停止し | 車を先に通してから |
左折し | 今度は西へ向って進んでいく |
暫く民家の間を直進すると | 子供神輿が途中で右折し |
民家の庭へ入っていく | 車屋台は道で停車 |
子供神輿を馬の上におろし | 一本締め |
囃子は演奏を止め | 10分ほど休憩を取る |
休憩後は一本締めで | 車屋台が先に出発 |
子供達は神輿を担ぎ上げ | 休憩場所を出発 |
正面の道を右折し | 西へ向って進んでいく |
●休憩所2(到着13:50、出発14:00)
北へ向った一行は天野屋倉庫の裏で2回目の休憩を取り、子供達はパンとジュースをもらう。なお、巡行時には交通指導員が4名あたる。
神輿はバス通りの交差点を横断 | 車屋台は右折して別行動 |
住宅地を直進し | 途中で右折して北上 |
直ぐに右折し | 再びバス通りへ戻る |
一行は左折して北へ進み | エコ・ステーション前を通過すると |
天野屋倉庫裏の | 休憩場所へ到着 |
敷地内にはパンとジュースが用意 | 子供神輿は奥でUターンし |
輿をおろして | 一本締め |
パンとジュースをもらい休憩 | 私もご好意で頂きましたm(_ _)m |
提供者の方にお礼を言う子供達 | 囃子方は大橋工務店前で休憩 |
休憩を終えると一本締め | 車屋台が先に出発 |
子供神輿は休憩所を出ると | バス通りを北へ向かい |
目の前の田端北交差点で | 左折 |
次の休憩所を目指し | 田端地区を練り歩く |
●休憩所3(到着14:10、出発14:20)
子供神輿は田端地区の最北端でUターンすると、シャトル工業(株)の敷地内で3回目の休憩を取る。
田んぼ横を西へ向って進み | 田端北バス停を通過 |
暫く進むと十字路に差し掛かり | 子供神輿は右折 |
車屋台はシャトル工業で停車し | 神輿はさらに北へ進む |
水路沿いに進み | 住宅地を抜けると |
団地の敷地に右折して入り | 正面を南へ向ける |
来た道を引き返す | 子供神輿 |
シャトル工業前まで来ると | 子供神輿は右折し |
道を横断して | 建物正面へ向う |
神輿をおろして | 一本締めで休憩 |
休憩が終わると | 囃子が始まり |
子供達は神輿の周りへ | 車屋台が先に出発 |
子供神輿はシャトル工業を出発 | 敷地を出て右折し |
十字路を渡って | 南下していく |
●休憩所4(到着14:25、出発14:35)
田端地区を南下する一行は(有)古山看板塗装にて4回目の休憩を取る。
先頭の車屋台は | (有)古山看板塗装に到着 |
後方からは子供神輿が姿を現し | 店の横の民家の庭へ |
右折して | 入っていく |
馬の上に子供神輿をおろし | 一本締めで |
休憩を取る | お茶ありがとうございました |
休憩後は一本締めで | 子供神輿が出発 |
右折して | 南へ向って進むが |
車屋台が萬部寺付近で止まり | 子供神輿は手前の道で右折 |
西へ向って進むと | 三叉路の中央で |
右に旋回して | 来た道を引き返す |
子供神輿は東へ進み | 先ほどの通りへ出ると |
右折をして車屋台と共に | 南方向へ練り歩く |
●休憩所5(到着14:55、出発15:05)
一行は貴船神社を超えてさらに南側を巡行し、5回目の休憩は建設中のさがみ縦貫道路を越えた民家の敷地内で取る。
一行は萬部寺を通過し | 十字路をそのまま直進 |
先には神社の鳥居が見えるが | 車屋台は手前の道で右折 |
子供神輿も同様に右折し | 集会所の裏を西へ進んでいく |
少し進むと畑や | 稲穂が実る田んぼが広がり |
車屋台は十字路で左折 | 子供神輿も続いて左折する |
建設中のさがみ縦貫道路に | 向って南下 |
車屋台が田端神之倉交差点を | 横断して脇道へバックで入る |
子供神輿も同様に | 交差点を渡り |
直ぐに左折して | 民家の私道のような道に入る |
子供神輿を馬の上へおろし | 一本締めで休憩を取る |
休憩を終えると | 一本締めて |
神輿を担ぎ上げると | 休憩所を出発 |
左折して荻園キリスト教会を | 通過すると直ぐに右折 |
●休憩所6(到着15:15、出発15:25)
田端地区の最南端を巡行した一行は相模原茅ヶ崎線(県道46号線)まで来ると折り返し、荻園キリスト教会の裏で休憩を取る。なお、相模原茅ヶ崎線から相模川までの間も田端地区になるが、この西側の地区は巡行経路には含まれていない。
住宅地に入った子供神輿は | コの字に |
左折していき | 正面には直進していた車屋台 |
子供神輿が現れると出発し | 子供神輿も右折して後を追う |
南に進むと直ぐに | 車屋台は右折 |
子供神輿も続いて右折し | 相模原茅ヶ崎線へ向って進む |
県道46号線の交差点前で | 子供神輿を待つ車屋台 |
子供神輿が交差点に着くと | 石黒歯科医院前でUターンし |
車屋台と共に | 来た道を引き返す |
車屋台は左折して | さがみ縦貫道路へ向う |
子供神輿も左折し | 北へ進むと |
荻園キリスト教会前で待機する | 車屋台を |
追い越し | 直ぐに左折 |
教会裏で子供神輿をおろし | 一本締めで休憩 |
休憩を終えると | 一本締め |
囃子が始まり | 車屋台が先に出発 |
子供神輿は左折し | 一行は北へ向う |
●休憩所7(到着15:30、出発15:40)
一行はバス通りにあるセブンイレブンの駐車場で7回目の休憩を取る。
車屋台と子供神輿は | 再び田端神之倉交差点を横断 |
最初の十字路で | 車屋台が右折 |
子供神輿も | 同じく右折 |
暫く進むと突き当りを右折し | 生往寺前で直ぐに左折 |
子供神輿もT字路で右折し | 直ぐに左折して車屋台を追う |
一行は東へ進むと | 車屋台が十字路を左折 |
子供神輿はそのまま直進し | バス通りへ出ると |
セブンイレブンの駐車場で止まり | 一本締めで休憩 |
休憩後は | 一本締めで |
子供神輿を担ぎあげると | コンビニを出発 |
●休憩所8(到着15:45、出発15:50)
最後の休憩場所は自治会長宅の庭で取り、休憩後は貴船神社を目指す。
車屋台は北へ進み | 子供神輿も右折して |
車屋台の後を追う | その先の十字路で |
車屋台は一旦右折し | そのままバックして |
西側の道へ避けると | 車屋台の前を子供神輿が右折 |
最後の休憩所となる | 自治会長宅へ入る |
車屋台はバックして神社へ移動 | 神輿は一本締めて最後の休憩 |
休憩後は一本締めで | 神輿を担ぐと |
自治会長宅を出発し | 右折して西へ向う |
お宮までの直線道の途中では | お囃子が演奏され |
最終地点の貴船神社まで | 残り僅か |
●宮入り(到着15:55)
2時間45分かけて田端地区を巡行した子供神輿は、鳥居を潜って社殿前で輿を下ろす。なお、囃子の車屋台は境内へ入ることなく、東側に続く道路の脇へ止める。
子供神輿は露店商の間を | 通り抜けると |
鳥居を潜って | 無事に宮入り |
集会所前を通り | 社殿前に輿をおろす |
最後に三本締めて | 社殿前にお菓子を並べると |
頑張って神輿を担いだ | 子供達に配っていく |
私も頂きましたm(_ _)m | 集会所では余興の準備が整う |
櫓へは太鼓を運び | 夜の演奏の準備を進める |
責任役員と総代らは | 子供神輿を抱え上げ |
社殿へ | 上げると |
奥へ移動して | 馬の上におろす |
宮入り後の参拝者 | 集会所前では椅子を並べる |
この後は余興へ。
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