愛甲あいこう

熊野神社

  愛甲部落字宮添(みやぞえ)に鎮座する「熊野神社」の祭神は「伊装諾神」で、神体は本地仏11面観音を置いた。その昔、相模国愛甲荘の地頭職に藤原清俊が任ぜられ、領内に現熊野神社が勧請された。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「熊野社」は愛甲村の鎮守で木像を置き、社前には康暦年間(1379〜1380年)の石灯籠があったという。また、末社には「神明社」・「白山社」・「八幡社」・「吾妻社」があった。天正19年(1591年)11月には社領4石の御朱印地を賜り、明治初年に上智されるまで続けられていた。この他に享保17年(1732年)鋳造の鐘があったことが記されているが、現在は新しい鐘になっている。愛甲村のこの他の神社・小祠には村持ちの「稲荷社」・「打越社」・「道祖神社」、「宝蔵院」持ちの「神明社」・「第六天社」・「山王社」が記載されている。
  江戸末期頃迄の神官は神愛甲住む萩原数馬氏と小川治太夫氏の両名が務めていた。古くは当社の別当寺院として「日光山宝藏院愛甲」があったが、明治初年の神仏分離に際して廃寺となり、住職をしていた毛利氏は還俗して神官となり、その子孫も相継いで神職として務めている。
  昭和49年(1974年)に社殿が再建され、拝殿(間口3間半、向拝9尺程)は木造入母屋造で廻外廊下になっており、拝殿に続いて幣殿と本殿が建てられている。社殿には扁額(高さ1尺5寸幅1間程)が掛けられており、銘文「熊野神社 素鳩書」と認められている。本殿の内部には萬延元年(1860年)に総氏子で寄進した「奉納熊野三社大権現」の銘文のある戸帳が掛けられている。境内には古い石灯籠2基が残されており、1基は南北朝時代の康暦2年(1380年)2月の刻銘があり、神奈川県内で確認されている在銘石灯籠の中では最古のもので、古代文化財として保管されている。笠・竿・基礎は当初のものだが、他の部分は近年に補われたものである。もう1基の石灯籠には延宝8年(1680年)の銘があり、梵字で「熊野三社大権現」の社号が彫られている。また、大正4年(1915年)1月に奉納された布製大幟(長さ12m、幅1m程)1対があり、銘文には蓼石書にて「熊野神社 大正4年11月10日 御大典記念 氏子中」と書かれている。

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熊野神社社号標
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鳥居参道
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不動明王大日如来
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石灯籠手水舎
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鐘楼
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狛犬狛犬
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拝殿覆殿・幣殿
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神楽殿
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境内

囃子

  神社境内では坊中、上愛甲、の保存会によって太鼓が叩かれる。太鼓は第二次大戦後に伊勢原市の高森とかシモガタ(下方。南の方向)の人から習って始めた(上愛甲?or坊中?)。
  坊中は上愛甲の後から太鼓を始めた。



神輿

  宿、宮前、坊中第一、坊中第二の各自治会では神輿を担ぐ(昔はなかった)。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の9月1日に行われていた。古い時代の大祭日は9月28日であったが、第二次世界大戦以前は養蚕の都合で10月12日になった。第二次世界大戦以降は再び9月28日になり、現在の祭礼は9月の第4土曜日となっている。
  昔は氏子総代が村中から集めたお金を青年に渡して、祭礼を行っていた。祭りの時にかかった花(寄付金)は、上愛甲とか坊中とかの青年のハチハライの費用に充てた。現在は上愛甲、宿、坊中第一、坊中第二、宮前、田屋・片平から世話人が各2人ずつ出ている。
  準備は神楽殿を開けて花道を出して舞台に取り付ける。昔は幟を立てており、幟は厚木のオクマサン(旭町三丁目にある熊野神社)から貰ったものと伝え、遠くは伊勢原市の小稲葉からも見えたといわれるほど大きなものであった。現在は国旗を鳥居前に交差させて立て、社殿の掃除をして提灯を取り付ける。
  大祭当日は午前中に神官による式が行われ、氏子総代が玉串を奉納する。夕方からは神楽が舞台で演じられる。また、露店は昔も今も出ている。



愛甲の歴史

  旧愛甲村は厚木市域の南西部に位置し、村域は愛甲台地と沖積地に占地する。概して平坦な地形であるが、台地北東部の熊野神社付近には開析の進んだ一段高い段丘面が細長く存在する。村域北側と東側の沖積地が広く水田で、台地上は畑であった。北境を改修後の玉川が流れているが、かつての玉川は台地北側段丘崖下に沿って流路があった。村域東南を矢倉沢往還が、中央を糟屋道・大山道が南北に通り、村域中央にはナカミチが東西方向に貫いている。周辺は、東側は大住郡酒井村、南側は大住郡下津古久村・同上落合村・同石田村(現伊勢原市)・同高森村(現伊勢原市)、西側は小野村、北側は長谷村・船子村に接している。
  当村の名称は愛甲郡の郡名に通じており、鎌倉期から室町期の愛甲庄・愛甲保といった当村周辺を含んだ広い地域の名称にも通じていた。また、『吾妻鏡』の治承4年(1180年)の記事を初見とする鎌倉幕府の御家人であった、愛甲三郎季隆の本貫の地と考えらている。『風土記稿』では「郡名の起れる原村にして愛甲三郎季隆爰に住し、在名を氏とす」と記している。中世後期の天文20年(1551年)の「道者売券写」では「あいきやうのかう」、永禄2年(1559年)の『所領役帳』では「中郡愛甲」と記載されている。
  旧集落は「カミアイコウ」と「シモアイコウ」の2つに総称される。カミアイコウ段丘崖に沿って「オオガミ」・「グミダ」・「ヒガシケード」があり、沖積地に「カネジ」がある。かつては崖下に多く家があったが、関東大震災で崩壊した土砂が玉川を埋めたことから水害が発生するようになり、台地上に移転した家が多いという。シモアイコウは段丘崖に沿って「ボウジュウ」・「シュク」があり、低地の中の自然堤防性の微高地に「カタビラ」・「タヤ」の2集落がある。『風土記稿』では小名として「川久保」・「金地」・「茱萸田(ぐみた)」・「坊中」・「中ノ御所」・「天神屋敷」・「新見堂」・「宮下」・「城ノ内」・「下屋敷」・「田屋」・「片平」・「堀ノ内」を載せるが、伝承資料をみると全てが集落名とは思われない。
  近世の支配は幕府・旗本・藩領の2〜3給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は135戸で、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は168戸であった。明治22年(1889年)に戸室村・恩名村・温水村・長谷村・船子村・愛名村と合併して南毛利村大字愛甲となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字愛甲となる。北西部では伊勢原市にかけて愛甲原団地が造成され、以後も宅地化が進んでいる。水田地帯では小田原厚木道路の厚木西インターチェンジの開設以後、事業所等の進出が目立っている。


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