一色
神明神社
「神明神社」は祭神を「大日霊貴命(おおひるめのみこと)」とし、宮根にある一色の氏神である。元は橘川昭一家(屋号トウゾウサン)の屋敷神だったが、持ちきれなくなって宮根に寄附した。その結果、神明神社の日待ちをムラでするようになったという。
一色は鎌倉時代(1192〜1333年)には盛んに武具の鋳造が行われていたと伝えられ、神社の近くに「金クソ」という地名も存在する。その工人達によって一色は開かれ、土地の鎮守として創祀されたのが神明神社であると言われる。
その他、中南には「天津神社(一色1027)」があり、これも昔は柏木智義家の屋敷神であったが、やはり持ちきれなくなり、中南(13戸)に維持を依頼した。祭礼は4月20日に行っていたが、中南でも維持できなくなり、今では一色地区に依頼、4月第1日曜に神主を招いて祭りを行っている。戦前は祭日に神楽や映画を催したという。
その他、洞根の宮田氏宅には「天社神」が祭られている。この由来は詳細不明だが、天社日から判断すると、彼岸の社日の神、則ち地神ではないかと思われる。八坂神社(一色625-2)の例祭日は7/15。
神明神社 | 鳥居 |
神社由緒 | 狛犬 |
手水舎 | 神楽殿 |
拝殿 | 本殿 |
浅間神社 | |
境内 |
例大祭
神明神社祭礼は7月15、16日にしたが、もとは9月15、16ではなかったかとうい意見が中南・宮根の話者から出ている。かつては子供神輿を10日くらい前から担ぎ、一色中を一軒ずつ賽銭をもらいながら歩き回った。この金を貯めて新しい神輿を作ったという。15日は神輿だけ担ぎ、16日は休んで地芝居(奉納芝居)を楽しんだ。地芝居は大体厚木の方から頼み、これには神楽師も来た。その他には、小田原の千代の芝居が来て、芝居一節の一座だった。役者は宿を順番にして各家に泊まらせたが、その後公民館に泊まるようになった。宿の当番は夕食、夜食を作って持って行った。年一回の娯楽なので、楽しみにしていた。養子に来た婿は芝居が見れず、裏で火燃しをしていなければならなかったという。
また、戦前は毎月1日・15日に平和と氏子の健康、出征兵士の武運長久を祈る「祈願祭」が行われ、住民や近郷からの参拝者も多かったという。
一色囃子
一色の囃子がどのように伝わってきたかは定かではないが、「大山囃子」系統の囃子である。「一色囃子保存会」は昭和50年(1975年)2月に発足し、昭和52年(1977年)11月には「神奈川県民俗芸能50選」に選ばれており、「神奈川県民俗芸能大会」で発表した。保存会会員は小学生を中心に構成されており、平成6年(1994年)には「緑が丘地区」が入会した。また、母親を中心とした。
囃子は「大太鼓4」・「締太鼓2」・「笛」で構成され、曲目は「囃子」・「治昇殿」・「宮聖天」・「きざみ」がある。保存会の年間行事としては天津神社祭典や神明・八坂神社祭典、一色盆踊り大会、メゾン二宮納涼祭、グレースヒル納涼祭、緑が丘納涼祭、緑が丘敬老会、二宮町民俗芸能のつどいなどがある。
神輿
一色にはもともと神輿がなかったという説と、神輿があったという説に分かれているが、現在の神輿は明治26年(1893年)に川勾神社からわずか十円の包み金で譲り受けたと伝えられている。明治26年に行われた国府祭の当番は一色にあたっていたので、中老(現在の宮掛)は神主の二見神太郎氏に川匂神社の神輿を一色に譲渡してほしいと願い出たところ、その神輿は古くかつ重いので実際その処置に窮していた状況であった。そのため、払い下げについては氏子の主だった人々も承知していることから、それなら一日も早くということで川匂神社の神輿を譲り受けることになった。
譲渡の願いをした翌日に一色の人々は、祭礼の格好で川勾神社へ出向いて神輿を担ぎ出した。途中の町中で小休止した際には参拝する人が多数いて賽銭がたくさんあったといい、梅沢の魚師の女・子供はこれが二宮様の神輿の見納めだと二宮から中里へんまで後ろをつけてきたものもあったという。この急な出入りによって世間では「一色の若い衆が二宮様の神輿を盗んだ」との風評も出た程であった。
川勾神社から譲り受けた神輿の製作年月日や製作者などは一切不詳であるが、神輿が保管されていた浄願寺が大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の被害で倒壊したことにより神輿が損傷し、その後に六百円を掛けて修理をしている。立派な金具がつき、塗りも非常に良いものだという。深川八幡の神輿は豪華で、紀伊国屋文左衛門が献納したといわれ、これをまねて造ったのがこの神輿であるという。そのようなことから普通の神輿とは違って重く一日担ぐと次の日は若い衆でも肩が痛んだほどである。明治の神社合祀後、神明神社から神輿を北根の八坂神社へ運び、そこで神主からミタマウツシをしてもらってから神輿を担いだ。
昭和10年代までは7月15、16日が祭礼であったが、後に1日だけとなり、昭和35年(1960年)までは16日に神輿が納まると芝居が掛かった。以前は大祭日の前日に公会堂前へ神輿を出していたが、近年は1週間前に公会堂へ出し、7月第3日曜日に八坂神社へ御霊遷しに向い、祭典後に氏子町内へいの渡御が始まる。神輿は13ヶ所に駐輿されるが、祭りのハイライトは県道(秦野街道)と神明神社の入口が接する県道側300mの地点で、神輿が差し上げられて渡る瞬間である。そして入口に神輿が入ると、参道が急坂のため神輿身部より轅先に掛けてある綱で曳き上げ、この参道を担ぎ上げられて神社鳥居前の急な石段を登っていく。神輿が神社に宮付けされると、神明神社の神楽殿に納まって保管され、その後はカラオケなどの余興が催される。
一色の歴史
『風土記稿』によれば一色村は小名として大殿畑・梅ノ木・北ノ根・中南・下南・下向・下合・打越の8つが列記されており、戸数は八十戸であった。それが明治10年(1877年)には戸数が104戸となり、社には神明社その他、寺では東光寺および浄源寺が記載されている。
橘川芳太郎氏によれば一色は明治以降5区域に分けられ、梅ノ木で1区、向根・北根で1区、中南・宮根で1区、洞根・下谷で1区になったという。この中で宮根は2組に分かれているが、それぞれの組の名称はない。なお、現在は以上の他に清水が加わっており、『風土記稿』に記載されている下南・下向・下合は現在の宮根・向根・下谷ではないかと思われる。
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