上関口かみせきぐち

神社の紹介

  「御嶽神社」の祭神は「日本武尊」で武州「御嶽社」を分祀したものであり、古くは上下関口村の総鎮守であった。その後、地区が南北に分村する際に「山王社」が創建され下関口の鎮守社となり、西方の長坂地区にも「山王社」を分祀した。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると関口村の鎮守は高座郡磯部村「仏像院」持ちの「御嶽社」で、神体石一顆を置き末社に「天神社」・「第六天社」があった。関口村のこの他の神社・小祠には小名下関口の鎮守である「山王社(仏像院持)」、厚木村熊野堂持ちの「山王社」・「第六天社」が記載されている。
  「御嶽神社」は上関口村の鎮守であり、昭和末頃になり社殿の老朽化が著しくなったため、平成6年(1994年)4月に再建した。

2008.6.72008.6.7
御嶽神社由緒


例大祭

  祭日は4月第1週または第2週の土曜日だが、以前は4月15日であった。
  神主による祝詞奏上後に玉串を捧げる。

囃子

  



神輿

  



関口の歴史

  旧関口村は厚木市域の北東部に位置し、村域は中津原台地にある。概して平坦な土地で占められているが、台地東縁・西縁の段丘崖下は沖積地である。東境には相模川、西境には中津川が流れている。村域東側には八王子道が、西側には信玄道がそれぞれ南北に貫いている。周辺は、東側は相模川を隔てて高座郡新田宿村・同座間宿村(現座間市)・同座間入谷村(同)、南側は中依知村、西側は中津川を隔てて三田村、北側は山際村・下川入村に接している。
  中世の頃の関口村に関する現存資料はなく、近世の正保国絵図には「関口村」と載る。『風土記稿』は本村名に関し「古へ相模川を此地にて堰入れ、用水とせしより村名起れりと云」と記している。旧集落は東側の段丘沿いと西側の信玄道沿いにある。台地東側の集落を「セキグチ」といい、さらに「ウチワ」・「シタムラ」等の小集落がある。西側には「ナガサカ」集落がある。『風土記稿』では小名として「上関口」・「下関口」を載せる。東側台地縁の集落はかつては段丘崖中腹・崖下に屋敷地があったが、関東大震災で崖が崩れて台地上に移ったという。
  近世の支配は、初期は幕府直轄領、以後は幕府・旗本領等の2給となった。『風土記稿』によると幕末の戸数は70戸で、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は62戸であった。江戸時代から明治時代まで台地上の畑が主たる耕地で水田は少なかったが、段丘下の沖積地は明治42年頃に耕地整理が行われて水田となった。明治22年(1889年)に金田村・下依知村・中依知村・山際村・上依知村・猿ヶ島村と合併して依知村大字関口となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字関口となる。


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