徳延とくのぶ



神社の紹介

  「徳延神社」の創建は大同年間(806年)頃といわれ、京都上加茂神社より雷電神を分霊して祀ったと伝えられる。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると徳延村の鎮守は「雷電社」で、神体は長さ一尺二寸の木像、「牛頭天王」を相殿としていた。また、末社として「疱瘡神」・「諏訪」・「第六天」があり、徳延村にはこの他に「稲荷社」・「神明社」・「水神社」が記載されている。
  古来より農業の神様として崇敬され、近年では家内安全・商売繁昌・開運厄除・交通安全にも神得の高い神社として広く信仰されている。祭神は主神「別雷命(わけいかずちのみこと)」・「山王権現(さんのうごんげん)」・「牛頭天王(ごずてんのう)」が合祀されている。
  境内北側には天照皇大神を祀る末社の「神明神社」がある。

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徳延神社鳥居
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狛犬手水舎
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燈籠
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拝殿覆殿
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石祠
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神社由緒社務所
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境内徳延自治会館


例大祭

  例祭は『風土記稿』によると旧暦の6月15日であったが、その後は4月15日になり、近年では百姓以外の者が増えたため4月の第3土曜日にし、後片付けを日曜日にしている。
  村の祭りであった頃は歌舞伎をやり、徳延ではいい芝居が見れるといわれ、見物人が境内一杯になったという。

太鼓

  昔は4月2日頃から毎晩の様にお宮さんや暇な人の家に寄って叩いて、太鼓連が寄付金を飲み食いするといわれる程盛んであった。宮世話人は若い者達の要求が強いのをうまく折り合いをつけ、費用のやりくりをするのに大変であったという。青年達の活動はこの祭りに集中していたのである。



神輿

  



青年会

  「青年会」は15歳で加入し、40歳あるいは厄年までいて抜けたが、村には他に楽しみがなかったので続けて入っている者もかなりいた。多いときで50人で、普通は30〜40人の会員がいたという。仲間入りするときは正月2日の「ウタイゾメ」の際に近所の世話人に連れられ、酒一升にナマスなどを持って行き一杯飲んで歌った。長男は全員加入したが、次男以下はなかなか入ろうとしなかった。退会の際にも酒一升を出した。
  役職は会長・副会長各1名の他に2名いて、計4名であった。婿に来た者は入会できたが、あまり良くない仕事をさせて役にはつけなかった。しかし、昭和期に入ったあたりから同等の扱いをするようになった。会の活動の中心は祭りの準備であったが、月見や力比べなど各種行事や遊びがあった。費用捻出のために用水の両側に稲を植えたり、川の洲に松の木を植えたり、河原に拓いた畑を貸したり、縄をなって売るなど様々な工夫をし、飲食や旅行などにあてていた。村で結婚式があると青年会に振舞い酒が出されたものだが、近年はお金になったという。
  大正9年(1920年)に「青年団」の名称を採用したが、昭和の初めでも伝統的な「ワカイシュ」が用いられていたという。


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