片岡
片岡神社
「片岡神社」は片岡の鎮守であり、境内に「浅間神社」を祀っている。祭神は天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「天彦火瓊瓊杵尊(あめのひこほににぎのみこと)」であるが、片岡神社となってからは「別雷之命(わけいかつちのみこと)」と明治6年(1873年)に合祀された「豊受比売之命(とようけひめのみこと」・「大山祇之命(おおやまくいのみこと)」を加えた四柱になっている。『風土記稿』にある御神体は長さ八寸の座像であるが、言い伝えのみで開扉することはなかったとある。『かたおか風土記』によると現在の御神体は首の落ちた木製の立像で、これは落雷を御神体が氏子の身代わりとなって護ったためと神官家に言い伝えられている。
当社は平安時代の永承2年(1047年)9月に京都の下加茂神社より御神体を勧請して創建したと言われ、鎌倉時代の初めより「雷電社(雷電宮)」と称された。源頼朝が妻政子の安産祈願などをされたと伝えられる神社で、雷除け鎮護の神として地域住民から厚い崇敬を受けてきた。歴史文献としては鎌倉時代の建暦2年(1212年)2月23日に、鎌倉将軍の源頼朝が当社を祈祷所として定めたことが『吾妻鏡』に記されている。
江戸時代初期の天正19年(1591年)8月には徳川家康より社領二石の朱印状が下賜され、以降歴代の将軍により幕末まで朱印状が下賜された。貞亨2年(1685年)6月11日には綱吉、享保3年(1718年)7月11日には吉宗から社領二石の朱印状を下賜する等の古文書も有ると伝えられている。また、家康は鷹狩りの折に当社へ参拝し、神主の宮川丹後家嗣の家で休憩し、宮川家には家康が使ったと言われる葵の紋が入った茶碗が残っている。宮川家古文書には村民が寛永6年(1629年)に梵鐘、寛永11年(1634年)に鳥居を奉納した記録も現存する。
『風土記稿』によると鎮守の雷電社には拝殿があり、鐘樓には寛永6年(1629年)の釣鐘を掛けていた。末社として「牛頭天王」があり、村内には村持の「山王社」・「石神社」・「稲荷社」、村民持ちの「神明社」があった。御入国(徳川家康か?)の頃には雷電社の神主の屋敷内に御床几を居せられ、御休息があり、御他界の後にその場所にお宮を建立したが、屋敷内に置奉る事が恐れ多いということで、文化7年(1810年)に雷電社の北の山上に石祠を建立して遷し祀った。
明治3年(1870年)に鎮守改称願を提出し許可されたため、明治6年(1873年)7月に「稲荷社」・「日枝社」を合併して片岡神社と改称して今日に至っている。また、境内には安政2年(1855年)再建の石祠型道祖神や、昭和59年(1984年)再建の東照宮など8基が並んでいる。
片岡神社 | 鳥居 |
石碑 | 手水舎 |
神社由緒 | 燈籠 |
狛犬 | 狛犬 |
拝殿 | 覆殿・幣殿 |
石碑・記念碑 | 石祠 |
倉庫 | 境内 |
昭和30年5月の神社 | 昭和36年3月の神社 |
宵宮準備・午前 (集合9:00)
ここからは令和元年(2019年)5月2日(木)に行われた宵宮の様子を紹介する。大祭の前日は全体の集合時間が朝9時になっているが、お宮の役員(宮総代)だけが朝8時となっており、境内の飾り付けや掲示板の設置、神輿の準備や山車の組み立てが行われる。
お宮の役員は朝8時から | 準備を始める |
竹藪から取って来た竹から | 枝と笹を落としていく |
8時半頃に神輿殿が開く | 社殿では祭壇の準備 |
脚立を積んだトラックが到着 | 脚立を神輿殿前に運びます |
人がだんだん集まってきました | 竹は忌竹になる様です |
社殿の縁の下から | 丸太を運び出し |
神輿殿前に立てて行く | 丸太は結構長いです |
忌竹は4本を束にして | トラックの荷台へ積んでいく |
リヤカーで運んできたのは | 巨大な鍋です |
使い道は明日分かります | 境内にも忌竹が必要な様です |
集合時間の9時になると | 宮総代代表の挨拶で |
準備開始 | 神輿殿から馬を運ぶ |
丸太は何本必要なんでしょうか | どんどん運び出します |
神輿殿から山車の部材を運び | 社殿の右手に置いていく |
社殿から幟旗を運び | 幟竿にセットしていく |
地面には丸太を立てる為の | 穴が開けられています |
今日は雲行きが怪しいです | 幟が上がっていく |
雨の心配があるので | テントを用意 |
酒のケースを | 軽トラの荷台へ |
軽トラに忌竹を積んで | 境内を出発 |
山車の部材は2台分あります | 南側の幟が上がりました |
支柱にロープを巻いて固定 | 続いて北側の幟上げ |
幟は今年新調しました | 令和元年 おめでたいです |
神輿殿から子供神輿を運び | テント下へおろす |
北の子供神輿です | こちらは子供神輿用の台車 |
子供神輿はもう1基 | もう一つのテント下へ |
掲示板が出来るようです | 北側の幟が |
上がってきました | 奥では日の丸を上げます |
こちらはお盆でしょうか | リヤカーに積んで |
社殿の左奥へ | 大きい掲示板になりそうです |
南北の幟が揃いました | 子供神輿を拭き掃除 |
日の丸も上がりました | 掲示板は下地の2段目へ |
太鼓の山車を組み立てる | 子供神輿に紙垂を付ける |
自治会館からでしょうか | テーブルを運んできました |
支柱にロープを固定 | 神輿殿では神社神輿の準備 |
山車の柱を横架材で繋ぐ | 掲示板前では足場を設置 |
南の神輿にも紙垂を付ける | 北の神輿に轅を挿す |
リヤカーでテントのパイプを運ぶ | 地区によって構造は様々です |
南の輿棒を担いで運搬 | 山車は軒桁と梁を乗せ |
束を立てて棟木を乗せる | 社殿には注連縄を張る |
北では捩り掛け | 南では担ぎ棒を通す |
社殿左手ではテントの組み立て | 鳳凰を露盤へ差し込む |
向拝の柱に提灯枠を固定 | 山車は2台目に取り掛かる |
直会に使うテントです | 向拝下は左手にも提灯枠 |
南でも捩り掛けを開始 | テント下にテーブルを並べる |
枠に提灯を設置 | 掲示板では合板を張っていく |
社殿右手の倉庫からは | 山車の屋根を運び出す |
10時になると | お茶休憩です |
祭壇に供物を供える | 神社神輿に紙垂を付ける |
育成会と宮総代が | 榊の形を整える |
長い掲示板です | 向拝下に電気配線を渡す |
子供神輿の捩りは紅白で | 蕨手から下は撚ります |
山車の屋根を | 2台とも乗せて行く |
屋根をゴムバンドで固定 | 神社神輿には祝令和の表示が |
北の神輿では榊を飾る | 南の神輿でも捩り掛け |
控え(やらず)で掲示板を補強 | まだ上に続くようです |
追加で丸棒を運び | ほとんどの柱を補強 |
反対側にも提灯を付ける | 屋根は直接ビスで軒桁に固定 |
10時40分になると | 2台のトラックが到着 |
3段目のベニアが張られます | 御即位の札を垂らす |
山車のトラックになります | アオリをおろし |
組み立てた山車をのせ | アオリを閉める |
もう一台の山車も載せる | 掲示板に照明をつける |
子供神輿に提灯を付ける | 片岡はレンタカーになります |
鳥居では | 注連縄張り |
掲示板には花飾り | 神輿殿から |
神輿を引き出す | 奉祝御大典天皇陛下御即位 |
神輿殿の天井から | 提灯枠をおろし |
軽トラの荷台へ積んでいく | 山車に破風を取り付ける |
こちらは花飾り用の竹 | 子供神輿に鈴を付ける |
神社神輿に榊を付ける | 花飾りは一周する様です |
提灯枠を積んだ軽トラが出発 | 育成会は花作りを開始 |
南の子供神輿をテントから出し | 今年新調した台車の上に載せ |
輿棒の高さを確認します | 北の神輿も台車へ乗せる |
竹に花を取り付ける | 掲示板に両面テープを貼る |
山車に提灯枠を付ける | 拝殿左手が花場(受付)です |
紙コップに水、良いアイディアです | 最後に裏側をテープで固定 |
台車に取っ手が付くようです | 金属のパイプを切断 |
的屋のトラックが入ってきました | 手水舎にも注連縄を張る |
山車では締太鼓の枠を取り付け | 車から太鼓をおろし |
社殿へ運ぶと | 拝殿へしまう |
パイプの切断が終わり | 取っ手をビスで固定 |
反対側にも取り付ける | 山車に提灯を設置 |
南北の識別が出来る様に | ステッカーを貼ります |
子供神輿の準備が終わり | 奥側へ移動 |
晴れてきたのでテントを畳みます | こちらは山車に巻く幕 |
もちろん2本あります | 荷台に回していく |
こちらは子供神輿の手綱作り | テント下ではおつまみの準備 |
手綱を轅に通す | 山車の正面にも提灯枠 |
12時になるとお弁当を貰い | 昼休憩になります |
神輿は神輿殿に収納 | 露天商は明日営業します |
宵宮準備・午後 (終了15:00)
準備は昼食を挟んで午後も引き続き行われ、15時頃に一旦解散となる。
30分程休憩を取ると | 準備再会 |
子供神輿を台車ごと | 社殿前に移動し |
輿棒を持ち上げて | 社殿内へ入れる |
提灯枠はまだ必要なようです | 非常に沢山あります |
南の子供神輿も | 拝殿内へ収納 |
こちらの赤い提灯は | 山車用の提灯です |
子供神輿の台車は蓋を開けると | 無駄のない収納になっています |
雲行くが怪しくなり | 再びテントを広げ |
神輿殿前に2つ並べ | 台車と花を入れる |
提灯と提灯枠を積んで | 設置に向かいます |
山車のトラックの向きを変え | 正面を参道側に向ける |
胡瓜と生姜には味噌です | 提灯用の電源を確保 |
山車では花の取り付け | 竹を破風に差し込んでいく |
参道を綺麗に掃き掃除 | 社殿前も掃除します |
ポスターは塗り絵方式です | 提灯枠に電球を付ける |
横の竹で出っ張りを揃える | ソースを小分けに |
山車はLED照明の様です | 正面には赤い弓張り提灯 |
育成会は13時半に一旦解散 | 飲み物が届きました |
南側の坂でも | 提灯の設置作業 |
バッテリーに照明の配線を繋ぐ | 照明を提灯の中へ |
倉庫横から清酒ケースを運び | 座布団を結んで固定 |
締太鼓の椅子になります | 社殿では玉串を作成 |
境内に沿って提灯を設置 | 裏の石碑前でも照明の準備 |
直会用のテーブルです | テント下にも電球を設置 |
電球の配線を社殿へ渡す | 明日は応援団体が多く集まる |
テントを畳み | 神輿を奥まで入れます |
軽トラックに | 北の台車を積む |
この日は時折小雨が降るので | 太鼓の山車にビニールシートを |
被せます | もう一台はラップで覆う |
準備は15時頃に終わり | 宵宮まで一旦解散です |
北側の坂の提灯はこんな感じ | 吾妻橋にも設置してあります |
山車巡行 (出発18:00)
太鼓保存会は17時頃にお宮へ戻り、山車に太鼓を設置しすると、北と南の2台の山車は18時に片岡神社を出発し、それぞれの地区を巡行して行く。
17時にお宮に戻ると | 山車からシートを外す |
社殿から大太鼓を運び出し | 山車へのせる |
締太鼓も | 山車へ |
氷屋さんが来ました | 切断して発泡スチロールの中へ |
大太鼓を | 専用の台へセット |
締太鼓は | 増し締めします |
徐々に人が集まって来ました | 叩き手は黒の衣装 |
締太鼓を枠へセットし | 布を掛ける |
テント下ではオードブルの準備 | 天気は持ちそうです |
17時50分に太鼓保存会が集合 | 子供達と一緒に |
南と | 北の山車へ乗り込み |
南の山車から先に | 移動し |
お宮を出発 | 鳥居を出て直進 |
続いて北の山車が移動し | 参道を通って |
片岡神社をお発ち | 右折して坂を下る |
宵宮 (開始18:00、終了20:00)
18時からは宵宮が始まり、境内のみではあるが神社神輿の渡御が2回行われる。南北の山車は19時30分過ぎまでに2基とも境内に戻り、宵宮終了の20時頃まで境内で太鼓を打ち鳴らす。
時刻は18時丁度 | 神輿保存会は神輿殿へ向かい |
馬を出して | 神輿を引き出す |
神輿を持ち上げ | 担ぎ上げると |
社殿前へ向かい | 神輿を180°旋回 |
正面を鳥居側へ向け | 参道に輿をおろす |
10分程で巡行中の山車が | 1台戻ってきました |
メンバーを入れ替え | 再び出発 |
18時30分になると | 神輿の周りに集まり |
輿棒に肩を入れ | 宵宮1回目の神輿担ぎ |
宵宮一発目の甚句が入る | そのまま参道へ移動 |
担ぎながらの甚句入れ | 幟の間を通過 |
外では山車がもう1台 | 帰ってきました |
神輿は直進して | 鳥居前で |
肩を入れ替え | 参道を引き返す |
セエー♪ | どっこい♪どっこい♪ |
社殿前でも | 甚句を入れます |
渡御を見守るお宮の役員 | 肩を入れ換え |
鳥居側を向いて | 輿をおろす |
先ほどの山車はメンバーを | 入れ替え再び出発 |
神輿では鳳凰を照らす | 照明の向きを調整 |
神輿担ぎが終わると | テント下で食事をとります |
19時を過ぎると | 巡行していた山車1台が |
巡行を終え | お宮に到着 |
19時10分になると | 神輿を担ぎ上げ |
甚句を入れて | 2回目の神輿担ぎデス |
参道を練り歩き | 鳥居前で肩を入れ換えて |
引き返す | 途中で甚句を入れ |
社殿前へ | 肩を入れ換えて |
輿をおろす甚句で | 馬を入れる |
19時15分になると | 太鼓が再開 |
神輿保存会のメンバーも | 太鼓を叩きます |
19時半過ぎになると | もう一台の山車が |
帰ってきました | 2台の山車が |
境内で競り合います | テントでは宴が続く |
太鼓が盛り上がってきました | 片岡は笛も入ります |
宵宮は20時で終わり | 片付けに入ります |
神輿を神輿殿まで運び | 台車に載せて |
轅ごと神輿殿へ納め | 馬をしまう |
山車では大太鼓と | 締太鼓を枠から外し |
山車からおろして | 社殿へ運ぶ |
拝殿内で | 締太鼓を緩めます |
テントでは食事の後片付け | 20分頃に太鼓保存会が解散 |
片付けが終わると | 神輿殿と |
社殿の戸締りをし | 山車に乗り込みます |
20時30分に | お宮を出発 |
スリーエフ平塚広川店に到着 | 山車を降りると |
山車は自治会館へ | 明日はいよいよ大祭です |
このあとは大祭準備へ。
片岡の歴史
片岡という名称は大磯丘陵の先端から名付けられたという。片岡村は慶長8年(1603年)に彦坂元正の知行地に与えられ、後の寛永15年(1638年)に旗本青山宗俊の知行地となる。延宝6年(1678年)以降に片岡村は幕府領に復するが、元禄10年(1697年)に旗本鵜殿氏基の知行するところとなった。鵜殿氏の知行地も宝永1年(1704年)に上知されて再び幕府領となるが、宝永年間に間部詮房の領地を経て延享2年(1745年)に旗本高井信房の知行地となり明治に至る。『風土記稿』によると片岡村の戸数は45戸で、小名には本村・中庭・和田・淺井窪があった。また、坂には宮坂・中道坂・和田坂などがあり、当時からアップダウンの多い地形だったことが伺える。
片岡は地区の真ん中を東西に横切る金目川によって大きく二分され、このうち「土手町」と呼ばれる川の北岸に人が住み始めたのは割りと新しく、大正12年(1923年)の関東大震災前後のことである。それまで川の北側は水田がほとんどであり、さらに江戸時代までさかのぼると川の南岸に居住する家も少なかった。人々は南側の集落でもさらに南にある丘陵斜面に沿って住んでおり、次第に東へ住宅が拡大してきたようである。そのころは片岡神社の鳥居も南側参道に向かって立っていたという。ちなみに、当社の現在の所在地は「宮ノ腰」でその東側が「宮ノ前」、北側が「宮ノ下」というように当社を中心にして3つの神社関係の地名が付いている。
片岡地区の地域区分としては「チョウナイ(町内)」と呼ばれる区分が最も歴史があり、昔は道路工事を初め何をやるにもこのチョウナイが単位となって物事が進められた。このチョウナイの区分は金目川南岸を3つに分けていて、北岸は昔から人があまり住んでいなかったこともありチョウナイは存在しなかった。具体的な区分は、南岸の最も西側である片岡神社を含む周辺地域を「ニシチョウ(西町)」、その東隣で「竜源寺」を中心とする片岡の中心部を「ナカチョウ(中町)」、そして最も東端に位置し東部の広川地区と境を接する地区を「シモチョウ(下町)」または「アサイクボ(浅井窪)」と呼んでいた。現在ではこの区分は単なる地名程度の意味しかなく、自治会の新しい区分に改編されている。
『風土記稿』には小名として「本村」・「中庭」・「和田」・「浅井窪」が挙げられており、中庭は龍源寺の周辺で中町にあたり、和田は中庭と浅井窪の間の小字である。片岡が南側の丘陵地から開けてきたという伝承からすると、本村は片岡神社周辺の西町に当たるのではないかと思われる。
現在、金目川の南岸と北岸は地区のほぼ中央でコンクリート製の「吾妻橋」によって結ばれているが、かつての吾妻橋は木橋であり、位置もさらに東側(下流)のアサイクボとナカチョウの境目あたりに掛かっていた。南岸に住む農家にとって北岸の自分の水田へ行くのに、大きく迂回せねばならず大変不便であった。そこで片岡の人々は長くて厚い木の1枚板を2枚、川の両岸から張り出し、川の真ん中で互いに段差ができないように食い違いにつないだ「一本橋」と呼ばれる橋を全部で3本掛け、1本ずつを各チョウナイで使用していた。一本橋は人間1人が歩いて渡れる幅しかなかったが、農作業で鍬や万能を一丁持っていく程度の時にはよく利用された。もし、大きな荷物があるときんは車に積んで旧吾妻橋を迂回していた。
一本橋を管理する仕事としては各町内で2人ずつ当番を出し、金目川の氾濫の際などに流された橋板(チョウナイ名)が書いてあるを下流の大磯まで回収しに行くことであった。この一本橋はその後吾妻橋が開通した20〜30年前まで使用されていたらしい。
祭礼の歴史
『風土記稿』によると片岡の鎮守である雷電社の例祭日は8月9日であったが、社殿内にある山車の写真は昭和30(1955年)4月12日と昭和35年(1960年)4月24日に撮影されており、昭和30年代の祭礼日は4月の中で変動していたと推測される。現在の祭礼日は5月3日に固定されており、前日の5月2日に宵宮が行われる。
過去の取材
●平成21年(2009年)5月2日,3日・・・片岡神社宵宮・大祭
囃子
片岡では近年になり「片岡神社太鼓保存会」が結成され、子供達への太鼓の継承に力を入れている。練習は片岡自治会館において毎月1回程度行われる。演奏の機会は片岡神社の例大祭や納涼祭(盆踊り)の他にも、金目収穫祭および金目灯籠流し、さらにヨークマート北金目店での新春のイベントや施設でのボランティア演奏など、1年間を通じて精力的に活動いている。
昔は演奏する曲目が「囃子」のみであったが、現在は「宮昇殿」および「ジショウデン」・「シチョウメ」・「ニンバ」などの曲を組曲形式にした曲を取り入れている。またこれらすべての曲で笛と鉦を取り入れており、現在も囃子のレパートリーを増やす活動を精力的に行っている。
片岡には南北の2つの山車があり、例大祭では午前中に子供神輿渡御の先導、午後は神社神輿とは別行動で片岡地区を巡行する。
太鼓は締太鼓2個と | 大太鼓が1個 |
囃子には笛が入ります | 新春のイベントに参加 |
北の山車(正面) | 北の山車(側面) |
南の山車(正面) | 南の山車(側面) |
山車
かつて片岡には人の手で曳く形式の山車が1基あり、小田原の彫師による彫刻が全面に施されていたという。拝殿内部には昭和30年(1955年)4月12日と昭和35年(1960年)4月24日に撮影された山車の写真が残されており、現在でも曳かれている中原の山車と似たような形状であった。しかしながら、この山車は不審火(放火という話もある)により保管してあった小屋ごと焼失しており、運よく残った彫刻だけが拝殿内や神輿殿内に保管されている。山車があった頃の祭りは大変賑やかで、いい役者を呼んで芝居を掛けたり、近郷近在から大勢の人が訪れたという。
昭和30年4月12日の山車 | 昭和35年4月24日の山車 |
拝殿の神額の両隣には | かつて山車に飾られていた彫刻 |
2つには | 竜の彫り物 |
神輿殿にも | 彫刻付きの板が保管 |
天井にも | 2枚の板が掛けられる |
山車の模型(片岡自治会館) |
神輿
かつて片岡では子供育成会が東西南北の4ブロックで組織され、現在の南北2基の子供神輿以外にも、西に中型の神輿1基と東に樽神輿1基があったという。しかし、子供数の減少に伴い東は北に統合され、西は南に統合された。中型の神輿は女神輿などとして担がれた時期もあったというが、現在は例大祭で担がれることはなく、神輿殿にシートを掛けられた状態で保管されている。片岡にある4基の神輿は全て地元で製作されたもので、北の子供神輿は地元の大工、南の子供神輿は地元の板金屋が造ったという。
神社神輿(大神輿)は昭和57年(1982年)の製作で、台輪裏には高崎眞彰と笹尾隆の2名と、片岡耕友会の名が刻印されている。片岡では片岡神社神輿保存会が組織されており、神輿渡御の運営を行っている。
神輿殿 | 境内に並んだ3基の神輿 |
大神輿 | 片岡北の子供神輿 |
片岡南の子供神輿 | 今は担がれない中型の神輿 |
掛け声 |
---|
片岡甚句
片岡甚句は昭和58年(1983年)に宮川知昭氏と大澤迪之氏によって作られ、片岡自治会館には平成7年(1995年)5月吉日の自治会館の完成記念で作られた、片岡甚句の歌詞が書かれた木製の額が飾られている。
『片岡甚句』 (作詞:宮川知昭、大澤迪之)
(一)
皆様よ 聞いて下さい この唄を 時代の流れの その中で
片岡神社に生れでた 神輿の祝いと 思いつつ
詠んでみました この唄を いつの世までも 伝えつつ
語りつがれてゆけるよな そんな願いを こめるもの
(二)
春くれば 金目堤の桜花 昔の姿と 変われども
水は清き 今の世に カモメの郡を さそいつつ
草樹茂れる間には 散る花 咲く花 色そえる
それも長き年月の 深さ想わす 片岡の
雷電神社の おかげかと
(三)
今も昔も 清き流れの金目川 春は桜の 花堤み
夏はホタルの乱れ舞 秋は稲穂の黄金波
冬は白雪 うす化粧 丹波連峰 阿夫山
国立公園 富士箱根 朝な夕なに あおぎ見る
富士のながめは 相模富士
(四)
昔 むかしの古文書に その名をしるし片岡の
小高き丘にまつられし 雷電神社の 松の森
はるか遠くでながむれば 寄せ植えづくりの盆栽か
姿うるわし松の木は 幾百年の風雪に
たえて おおきく そびえ立ち
(五)
ある日 夏のことでした 一天にはかにかきくもり
雷ゴロゴロ鳴りひびき 田畑で働く村人は
鎌鍬すてておののきて 家路にいそぐ その途中
雷鳴するどく落雷す その時 神社の御神木
みずから落雷 身に受けて
氏子の命を 守りたる
(六)
片岡神社の 松の森 幾百年の 大木は
古き歴史の証なり されどみどりの姿なく
唯一に残れる 御神木 根元に昔が偲ばれる
栄枯盛衰 人の世の 世代はめぐり 変われども
のちのちまでの里人に
うたい続けて 伝えよう
太鼓練習
ここでは平成29年(2017年)4月30日(日)に行われた、片岡自治会館での太鼓の練習の様子を紹介する。18時45分から20時までは小学生の練習が行われ、21時までは中学生以上の練習時間となる。太鼓は2カラ準備され、1階と2階に分かれて練習が行われる。
18時に練習場所の | 片岡自治会館にやってきました |
片岡神社例大祭に向け | 幟と注連縄が準備されています |
会館内では練習に向け | 太鼓の準備 |
この小さいタイヤは | 練習で使うようです |
大太鼓を | 枠に入れ |
毛布を掛ける | 続いて締太鼓に |
金属の棒を通して | 枠へセット |
こばガードが貼ってあります | 毛布を掛けたら |
2階へ移動 | 茣蓙を敷いて |
締太鼓の台を広げる | かなり角度が付いています |
大太鼓の枠も広げる | 太鼓が横になる感じです |
大太鼓と | 締太鼓を枠へ入れ |
毛布を掛けて | 座布団を並べる |
子供達が集まってきました | 18時45分になると |
挨拶をして | 練習内容の説明 |
非常に礼儀正しいです | 小学生の練習前に |
先輩たちがお手本の演奏 | 真剣に聴く子供達 |
演奏を終えると | 小学生の練習に入ります |
数名が廊下に出て | 階段を上がり |
2階へ移動 | 練習を始めます |
1階でも練習開始 | 順番待ちの間はタイヤを叩く |
2階では | 笛が入ります |
玄関には子供たちの名札と | 出欠表 |
練習場所が2箇所あるなんて | 初めて見ました |
ここで練習を中断し | 別のグループと入れ替わります |
本番を想定してグループ別に | 練習しているようです |
片岡では緻密に | 練習の内容が組まれています |
2階では再び練習を中断し | グループが入れ替わる |
叩き終えたグループは1階へ | 再び練習再開 |
1階でも笛を入れて | 練習を続ける |
19時45分になると | 練習を止め |
子供たちは1階へ移動 | どうやら2階での練習は |
終わりの様です | 太鼓に毛布を掛け1階へ移動 |
1階では笛を交え | 太鼓練習 |
19時50分になると | 練習を中断し |
子供たちに説明 | 再びお手本の演奏時間です |
真剣に聴く子供達 | 演奏を終え |
違う曲を披露します | 子供たちは演奏に釘付け |
複数の曲を繋げた | 組曲です |
20時になると練習を終え | 今日の反省点を説明 |
最後に挨拶をして | 小学生は解散 |
練習で使ったタイヤを | 片付けます |
廊下ではお母さん方が | 子供たちに半纏を配布 |
ここからは中学生以上の練習 | ここでも挨拶をして |
練習の打ち合わせ | 奥では締太鼓を調整中 |
廊下では作業が続きます | 子供の数が多いので大変 |
調整を終えた締太鼓を | 枠へ入れる |
本番で使う太鼓の様です | 良く締まってそうです |
2階では一足先に | 練習を開始 |
1階でも | 練習を始めます |
音色を確認し | 演奏を止め |
再びボルトを増し締め | 枠にセットし |
笛を交えて | 練習再開 |
途中で演奏を止めると | 付き合いのある北久保が |
太鼓を披露 | 正月のヨークマートでも一緒でした |
交流は大事ですね | 叩き手が途中で交代 |
北久保が演奏を終え | 再び片岡が練習再開 |
写真は撮っていませんが | 私も叩かせて頂きました |
練習は | 21時に終わり |
枠から太鼓を | 外します |
締太鼓は緩めます | 太鼓枠を折り畳む |
大太鼓を毛布に包む | 太鼓枠は土間に置く |
2階でも | 後片付け |
太鼓類は毛布に包み | 部屋の隅へまとめる |
本番用の太鼓は | 専用の布で |
包んで | 他の太鼓と一緒にまとめる |
片付けは10分程で終わり | この後は懇親会 |
この日は21時45分頃に解散 | 練習お疲れ様でした |
大祭準備 (集合8:00)
ここからは令和元年(2019年)5月3日(金)に行われた例大祭当日の様子を紹介する。例大祭当日の集合時間は朝8時で、式典と宮出しに向けて準備が行われる。
宵宮と異なり | 例大祭当日は快晴です |
7時30分にお宮に来ました | 氏子の方が参拝に来ました |
新調した幟が綺麗です | 7時45分頃に社殿と |
神輿殿の鍵が開き | 馬を出します |
徐々に参加者が | 集まって来ます |
太鼓の山車が | お宮に入ってきました |
もう一台も到着し | 北側に停車 |
社殿からは | 南の子供神輿を |
運び出し | 境内の南側へ |
北の子供神輿も運び出し | 境内に並べます |
拝殿の扉を外す | 時刻は集合時間の8時丁度 |
花場の扉も外します | テントでは育成会が準備 |
大和屋の軽トラが到着 | 神酒所御用達と書いてあります |
飲み物を降ろす | 拝殿では締太鼓を増し締め |
こちらが受付になります | 神酒所の軽トラは神輿殿へ |
荷物を積み込みます | 拝殿から太鼓を出し |
山車へのせる | ご祝儀は花場で渡します |
倉庫から運ぶ丸い容器は | ごみ箱になるようです |
枠に締太鼓と | 大太鼓をセット |
神輿殿から神輿を引き出し | 180度回転 |
正面を社殿側に向けて | 参道で止めると |
馬の上に移します | 式典に向けて扉の確認 |
拝殿では胡床を並べる | 的屋も準備を始めます |
出雲大社の宮司が到着 | 社殿前を掃き掃除 |
紙製なので軽そうです | 神輿渡御の打ち合わせ |
時刻は8時30分になりました | 山車を動かし |
鳥居前へ移動 | 式典後直ぐに出発出来る様に |
入口付近で待機します | 子供達も増えて来ました |
途中で参拝する氏子も | 太鼓保存会が集合 |
式典 (集合8:50)
8時50分からは祭主である出雲大社の宮司により社殿で、9時30分からは神輿前で神事が執り行われる。
巡行の打ち合わせ | 8時50分になると |
社殿で神事が始まる | 最初に修祓 |
本殿を御祓いし巫女 | 宮司をお祓い |
出席者をお祓い | 最後に境内の氏子の修祓 |
祭主一拝 | 開扉 |
続いて献饌 | 祝詞奏上 |
子供神輿前では記念撮影 | お世話になる交通指導員です |
神事は玉串奉奠 | 各団体の代表が参拝します |
続いて宮司の挨拶があり | 宮司が境内へ降りると |
神輿に御霊を遷し | 社殿での神事を終えると |
出席者は境内に降り | 神輿保存会が神輿の周りへ |
神輿を抱えて180度旋回し | 大鳥を鳥居方向へ向ける |
子供神輿を参道側へ寄せ | 大神輿に祭壇を準備 |
9時20分頃になると | 大神輿をお祓い |
続いて北と | 南の子供神輿を修祓 |
宮司と巫女をお祓いし | 南北の山車を |
お祓い | 最後に参加者を修祓し |
北と | 南の子供神輿に御霊を入れる |
続いて祝詞奏上 | 参列者は頭を下げる |
宮総代代表から玉串奉奠 | 神輿保存会会長 |
太鼓保存会会長 | 最後に子供達が玉串拝礼 |
時刻は9時30分 | 子供達へ宮司から挨拶 |
神輿渡御
●宮立ち (出発9:45)
式典後は北と南の太鼓山車、北と南の子供神輿の順で片岡神社をお発ちし、その後は境内で乾杯が行われ、神社神輿がお宮をお立ちする。
神事が終わると笛の合図で | 宮昇殿の演奏が始まり |
北の山車がお宮を出て右折 | 南の山車もお発ちし |
南北に分かれて | それぞれの地区を巡行して行く |
続いて北の子供神輿が | 片岡神社を出発 |
その後を南の子供神輿が続き | 参道を進んで行く |
北の神輿は鳥居を出て右折 | 南の子供神輿は直進して |
山車に先導されて練り歩く | 北の神輿を馬の上におろすと |
宮総代代表の挨拶 | 担ぎ手にお神酒を配る |
続いて神輿保存会会長の挨拶 | 司会進行はshib副会長 |
相談役の挨拶で | 乾杯 |
副会長の一本締めで | 担ぎ手が神輿に集まり |
轅に肩を入れ | 担ぎ上げると |
甚句を入れて | 参道を進んで行く |
幟を通過し | 神輿を下して鳥居を潜ると |
片岡神社をお発ち | 直ぐに右折して |
坂道を下っていく | これから長い渡御が始まります |
片岡神社を出発した神社神輿は、7箇所の神酒所と2箇所の休憩所を経由しながら片岡地区を渡御していく。なお、南北の子供神輿は山車に先導されてそれぞれの地区に分かれて12時半までの巡行になるが、北は北の防災倉庫、南は片岡神社が最終地点となっており、北の子供神輿は防災倉庫から軽トラックで片岡神社まで運ばれる。子供神輿の先導を終えた南北の山車は自治会館へ移動し、後半は神社神輿とは別行動となるが、2台の山車が一緒になって片岡地区を巡行する。
※神輿渡御の様子は下記の神輿渡御の前半と後半を参照
神輿渡御(前半)
神輿渡御(後半)
●宮入り (到着19:15)
片岡地区の巡行を終えた神輿が宮入りすると、甚句を交えて境内で15分ほど神輿を揉み、神輿が馬の上におろされる。神輿が宮付けされると出雲大社の宮司により御霊が神輿から本殿へ遷され、最後に神輿保存会会長の三本締めで神輿渡御に幕がおろされる。
神輿は長い渡御を終え | 片岡神社に近づいて来ました |
鳥居前まで来ると肩からおろし | 轅を抱えて宮入り |
再び神輿を担ぎ上げる | 物凄い数の人です |
神輿は的屋の間を抜けて行く | 宮総代は社殿前で待機 |
神輿は参道を | ゆっくりと進み |
社殿前に到着 | 甚句を入れながら揉み |
神輿は後退 | 再び社殿へ押し寄せ |
芯出しを繰り返す神輿 | この日一番の盛り上がりです |
神輿の勢いは止まりません | 15分程揉むと19時30分に |
無事に宮付け | 御霊を神輿から抜きます |
最後は会長の三本締めで | 長かった渡御が終了 |
還御祭・直会 (開始19:35)
神輿が無事に宮付けされると、社殿内では神事が執り行われる。神輿の友好団体は社殿横で食事を取り、片岡神社神輿保存会は一団体ずつ社殿前で挨拶を交わして見送る。神事後は宮総代の直会、友好団体の直会の後は神輿保存会の直会が行われる。
社殿では神事が行われ | 友好団体は社殿横で直会 |
神輿保存会は直会を終えた | 友好団体をお見送り |
神事を終えた社殿でも | 直会が始まります |
20時になると | 太鼓が再開し |
境内で競り合います | 友好団体の直会が終わると |
片岡神社神輿保存会の直会 | 太鼓も最後の叩き納めです |
笛も良く鳴っています | 参拝客が少なくなってきました |
宮総代は直会を終え | 宮司が帰ります |
20時25分頃に太鼓を終え | 締太鼓を緩める |
神輿も片付けの準備 | 山車から太鼓を降ろし |
社殿へ運び | 今晩も一泊します |
子供神輿は社殿内へ | 神輿保存会は会長が任期 |
最後の為に胴上げします | 神輿殿から台車を出し |
神輿を担ぎ上げて | 台車に載せ |
神輿殿に収め | 馬をしまう |
掲示板が埋まっていました | 私のも貼って頂きました |
的屋も片付けを始めます | 神輿保存会も直会の片付け |
社殿の扉を閉め | 宮総代は解散 |
神輿殿のシャッターを閉め | 照明を消します |
時刻は21時10分頃 | 山車は明日解体します |
的屋の片付けの最中ですが | 神輿保存会はお宮を出発 |
片付けと反省会は明日です | 片岡の皆様お疲れ様でした |
例大祭の後片付けは翌日の5月4日(土)の午前中に行われ、午後からは反省会が催される。
行事/休憩場所 | 御旅所 | 時刻 | |
神社集合 | 8:00 | ||
神社式典 | 9:30〜9:55 | ||
@ | 宮出し | 10:00 | |
A | 北1区(平塚西郵便局) | ○ | 10:50〜11:05 |
B | 北2区(氏子宅) | ○ | 11:30〜11:45 |
C | 北4区(氏子宅) | ○ | 12:25〜12:40 |
D | 北3区(片岡自治会館)・昼食 | ○ | 13:10〜 |
E | 応援団体紹介 | 14:00〜14:10 | |
F | 片岡自治会館出発 | 14:10 | |
G | 南2区(氏子宅) | ○ | 14:50〜15:05 |
H | 南3区(宮川駐車場) | ○ | 15:25〜15:40 |
I | 南1区(氏子宅) | ○ | 16:10〜16:40 |
J | 吾妻橋際 | 18:10〜18:25 | |
K | 宮入り | 19:30 |
※時刻は予定されたもので、状況によって前後する。
若者組織
かつて片岡には「若者連」・「青年会」・「耕友会」が存在したが、結成時期や存在していた期間などは不明な点が多い。若者連(15〜35歳)は青年会ができる以前のもので、青年会(15〜25歳)と耕友会(25〜40歳)は併立する時期があり、最終的には耕友会(15〜40歳)に統一されたようである。また、女性の若者組織として「処女会(15歳〜)」が存在し、昭和24年(1949年)に「女子青年会」という名称に変わった。処女会と女子青年会の規制はゆるやかであり、耕友会のように集団として特別な機能を果たすことはなかったと思われる。
●若者連
若者連への加入年齢は15歳であり、脱退年齢は35歳であった。加入する祭には若者連の会合の日に酒を一升持っていったという。若者連の主たる機能は祭礼の準備・手配で、片岡神社の祭日になると若者連に所属する若者達は神社の境内を掃除し、幟を立てる。また、式の後に行われる芝居や演劇などの余興の手配をした。部落としての片岡は大正初期から昭和の恐慌の時代も含め、周辺の他部落と比べてわりあいに豊かだったと考えられており、片岡の大祭に呼ぶ芝居も田舎歌舞伎としては一流のものだったといわれている。余興のための費用を「サイテンワリ(祭典割)」の名目で集めるために、各戸への割り当て額を決めた。
このような祭祀執行的機能の他にも弁論大会を催したり、月に1度雑誌を発行するなど、片岡の若者連は学習的・修養的機能も併せて持っていたようである。
●青年会と耕友会
耕友会は明治44年(1911年)頃に結成されたといわれ、学校を卒業して就職するなど一人前になると入り、40歳(元は35歳)になると抜けた。耕友会には片岡の住民であれば任意で加入でき、元は「青年」といっていた。
青年会と耕友会が併立していた時期には、学校卒業時(15歳頃)に青年会に加入したが、その際は青年会員から加入するように語られ、新加入者は挨拶をした。そして25歳になるとやはり紹介されて耕友会に入った。このように青年会や耕友会への加入時には、必ず仲介者となる人間が存在したようであるが、仲介者を指し示す呼称についての資料はない。耕友会の役員は選挙で選ばれ、会則も作られていた。また、会合場所としては草山商店のあたりに「青年会場(クラブともいう)」があったが、震災後に現在の公民館へ移った。青年会および耕友会の主たる機能は次の2つであった。
@警防・・・警防的任務としては消防や水防の仕事があった。消防の仕事は「火の番」と呼ばれる夜回りが主であり、2人1組で拍子木を打ちながら歩いた。水防の仕事は水防訓練や川の見回り、堤防作りなどであった。かつては金目川がしばしば氾濫し、部落が水浸しになることがあったという。
A祭祀執行・・・祭祀執行的機能としては祭礼の準備や娯楽的催しであった。祭礼には神輿を担ぐだけではなく、山車も曳いていた(現在は焼失している)。皆で補助金を出し合って太鼓を買い、祭りになると叩いていた。さらに祭りの余興として神楽一座や芝居を呼び、その舞台を村人と共に作ったという。夜になると映画会を催した。このように片岡神社の祭礼執行の中心となって活動し、祭りの後には彼らをねぎらう目的で「ハチハライ」が行われた。
ハチハライとはごちそうの入った鉢をはらうことを意味し、祭りのごちそうの残りで花見をしたのである。かつては金目川沿いで行われていたが、河川の改修で桜がなくなってからは青年会場に場所を移したという。また、かつては現在の県道の脇に小さい川が流れていて、毎晩百姓にてって大事な鍬(クワ)を洗いに集まってきた。その時に若者達は大きな石を持ち上げて力比べをして遊んだという。
以上見てきたように、青年会や耕友会は片岡地区の警防や祭礼行事の主体となって活動してきたが、時代と共にメンバーが減少し、現在では神輿の再生(昭和57年)を契機に「片岡神社神輿保存会」に変化してきたという。
二宮尊徳と片岡村の報徳仕法
天保4年(1833年)は全国的な大凶作となり、翌年・翌々年と不作は続き、天保7年(1836年)にはさらに大凶作に見舞われた。これにより東北・関東の農村は大打撃を受け、いわゆる「天保の飢饉」である。片岡村の名主大沢市左衛門は荒廃した村を復興させるため、小田原の二宮尊徳に指導を仰いだ。
天保8年(1837年)に大沢市左衛門は子息の小才太や真田村の上野七兵衛ら7人で小田原の尊徳のもとを訪れ、尊徳から「貧しい家、富める家、それぞれが協力して資金をつくり、これを積み立てて、働き者で行ないの善い者を選んでこれに貸し付け、無利息で返済させる。この善種金の積み立てと無利息金の貸し付け、謝礼金を繰り返していけばどのような荒廃した村であっても立ち直る」という仕法の方針を授かった。
帰村した市左衛門は自家より資金を出すと共に田畑を担保として借金し、それらの金で親戚らの借金返済を助成した。また、村の働き者を投票によって賞し、年貢を負担してやり、収穫は全部本人のものにさせた。さらに借金で苦しむ農民たちに質入れした物を請け戻してやり、無利息で返済させることとした。こうして片岡村では農民たちが仕事に精を出すようになり、余力のある者は少しづつ積み立てをするようになった。このように成果が得られたことに対し、尊徳は賞賛するとともに本格的な仕法指導を行う。天保11年(1840年)に「村柄取直趣法御土台帳」を作成し、嘉永2年(1849年)までの10年間に渡って実施されることになった。この中で大沢家の分度を定め、大沢家は収入の2割を年々推譲することになった。
こうして片岡村には貧困者がいなくなり、嘉永3年(1850年)に尊徳は片岡村の復興事業を褒賞し、「報徳金克譲増益鏡(ほうとくきんこくじょうぞうえきかがみ)」を付して報徳善種金百両を与えた。以後、村民はこの善種金を資金として克譲報徳社をつくり、この克譲報徳社は以後、堅実に運営された。片岡村での仕法の成功は近隣にも聞こえ、南金目村では兵左衛門仕法・勘右衛門仕法・小左衛門仕法が、また真田村でも仕法が願い出されたが、いずれも片岡村仕法のような成果をあげることができなかった。
大沢市左衛門の五男として生まれた福住正兄(ふくずみまさえ)(幼少を政吉)は尊徳のもとに弟子入りし、仕法書の浄書・謄写や尊徳の身の回りの世話をしながら直接指導を受けた。嘉永3年(1850年)に尊徳のもとを辞し、足柄下郡湯本村(箱根町)の温泉宿「福住」へ養子として入った。そこで地域の振興に努めると共に、『二宮翁夜話』や『富国捷径(ふこくしょうけい)』などの書を著わし、報徳社の設立・指導、尊徳の贈位の献言、報徳二宮神社の創建など多くの事績を残した。
二宮尊徳
二宮尊徳は天保の飢饉より50年ほど前の「天明の飢饉」の最中、天明7年(1787年)7月23日に足柄上郡栢山(かやま)村(小田原市)に生まれた。組頭の家であったが、少年期に家は没落してしまう。努力してそこから身を起こした尊徳は小田原藩の下級役人に取り立てられ、領主財政の建て直しと荒廃した農村の復興に取り組み、のちに幕府の御普請役格となる。
尊徳の思想を「報徳」と呼び、この思想の基本は「小を積んで大を為す(積小為大)」で、すなわち勤労の積み重ねが重要であると説いた。これを実行するうえで大切なものは「分度(ぶんど)」と「推譲(すいじょう)」である。分度とは生活の規律を立てて支出の範囲を定め、その内で生活することで、推譲とは余剰を将来のために積み立て、また村や他人のために譲ることであって、これによって社会が成り立つと説いた。尊徳の復興事業(仕法)の特徴は報徳金と呼ばれる復興資金を無利息で貸し付け、農民の生活を安定させるところからはじまる。
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