下大槻
健速神社
「健速(たけはや)神社」の旧社名は「牛頭天王社」で、地元では古くから「お天王さん」の名前で親しまれてきた。祭神は「牛頭天王」と「須佐之男命」の二神を祀り、境内社には稲荷神社と御嶽神社がある。近年実施された秦野市教育委員会の調査によって、当社の本殿は市内に現存する最古の神社建築であることが明らかになり、平成15年(2003年)2月12日に秦野市の重要文化財に指定された。
その創建時期は詳らかではないが、古老の言伝えによると人皇百七代正親天皇の御代、富永弥四郎が武運長久を祈願して、永禄2年(1559年)に社殿を新造したといわれる。当社には秦野市内最古の永禄2年(1559年)の棟札が残っており、本願定秀・地主富永・原土佐守重政等の名が見える。また、天正9年(1581年)の棟札には本願伊奈定秀とあり、永禄2年の棟札に見られる本願定秀が伊奈氏であったことが分かる。拝殿奥の覆殿に収蔵されている朱塗りの本殿は、寛永3年(1626年)に徳川第三代将軍家光公より社領の寄進をうけ、寛永13年(1636年)年に造立された。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では「下大槻村」の項において、「牛頭天王社」を村の鎮守とし、神体は八寸ぐらいの石としている。永禄2年の棟札には大導法師圓、當地主富永、原土佐守重政、本願主定秀、口藤但馬、禰宜新兵衞らの名を記し、裏には永祿二載己未二月廿七日とある。神木の松は一丈五寸で、神楽殿があった。牛頭天王社は土屋村大乘院塔中の金藏院持ちで、本地堂は薬師を安ず、末社には稲荷、観音堂の名が記載されている。下大槻村にはこの他に村民持ちの「御嶽社」と「石神社」も記載されている。明治元年(1868年)の神仏分離の際に社名を現在の健速神社に改称し、明治6年(1873年)に下大槻村の村社に列せられ、大正5年(1916年)12月26日には神饌幣帛供進指定神社となった。現在の社殿は平成15年(2003年)9月12日に起工し、翌平成16年(2004年)5月9日に竣工式が行われた。
本殿は「一間社流造(いっけんしゃながれづくり)」で、地方の神社本殿では最も多い形式である。正面から見ると柱が2本しかなく(これを「一間という)、屋根は正面に葺きおろされて階段を雨から守る。こうした形式が「流造」で、背面を除く三方には廻り縁が付けられている。正面が約1.2m、奥行き約1mで、大きさは中規模だが、寛永13年(1636年)の棟札が残る市内最古の本殿である。そのため彫物などの装飾的な細部は比較的少なく、やや簡素な感があるが、よく見ると部分的に金が施されており、建立当初は大変華やかな社殿であったことがわかる。改造も少なく古い部分が多く残っており、建設当時の姿をよくとどめている。
健速神社 | 鳥居 |
燈籠 | 下大槻自治会館 |
鳥居 | 手水舎 |
輿堂 | 狛犬 |
拝殿 | 幣殿・覆殿 |
本殿 | 神社由緒 |
神社由緒 | 境内 |
社殿大改修奉賛者記念碑 | 庚申塔 |
石祠 | 水鉢 |
境内 | 明治末期の健速神社 |
祭礼の歴史
『新編相模国風土記稿』によれば、毎年6月7日から17日までを祭礼としていた。北方の村境に仮屋を建て、7日に出輿して13日に本社へ帰座、17日まで祭事が施行されていた。明治6年(1873年)に健速神社が下大槻村の村社に列せられた折に、7月9日を例大祭日と定め、例大祭前日に金目川の「川場水掛神事」で清められた神輿は、翌9日の例大祭に家々の門口で焚く麦わらの火を渡りながら、下大槻全域を一日で渡御する事となった。
祭礼は戦時中に休止されていたが、太平洋戦争後に復活した。その際、9月第1土曜日に「川場水掛神事」が行われ、翌日の日曜日を「例大祭日」と定められたが、現在でも7月9日に例祭の儀が執り行われる。なお、防災訓練や選挙が行われる場合は、例大祭日が第2周目にずらされる。健速神社では江戸時代から続く伝統の「火渡り神輿」の祭礼を今も受け継いでおり、下大槻の渡御を終えて境内に還御した神輿は燃え盛る麦藁の炎に迎えられ、人々の災厄を薙ぎ払う伝統神事「おおや」と呼ばれる勇壮な神輿ねりには、毎年多くの観客が訪れる。
渡御中の火渡り | おおや |
宵宮準備
ここからは平成28年(2016年)9月3日の土曜日に行われた宵宮の様子を紹介する。宵宮では午前中から祭礼の準備が行われ、山車の組み立てや神輿の捩り掛け、幟立てや式典の準備などが行われる。
7時半にお宮へやってきました | 既に掃除が始まっています |
天候が心配されていますが | 午前中は大丈夫そうです |
輿堂には | 大神輿が収納されている |
集合時間の5分前 | 青年会も到着し |
輿堂の裏から | ベニアを運び出す |
8時半になると | 大総代の挨拶で |
祭礼の | 準備が始まる |
輿堂から大神輿と | 神事に使う道具を取り出す |
境内では砂利を掃き寄せる | 青年会は輿堂裏から |
山車の屋根を | 取り出し |
フェンス側へ | 移動 |
さらに山車の | 部材を取り出します |
社殿裏でも作業が始まる | 山車の部材は |
運び出して | 境内の西側へ移動 |
社殿裏からは | 長い幟竿を取り出す |
氏子の方が協力して | 準備が進められます |
こちらは山車のトラック | 砂利がなくなり土がむき出しに |
山車の屋根裏から | 1年間の埃を取り除く |
青年会は | 山車の組み立てに取り掛かる |
社殿裏から取り出した | 幟竿は |
裏から運び出し | クレーン車へ積んでいく |
山車のトラックを掃き掃除し | 柱を |
横架材で繋ぎ | ボルトで仮止め |
掃除を終えた屋根は | 向きを合わせて |
ひっくり返し | 持ち上げて |
柱の上に上げると | ホゾをホゾ穴へ差し込む |
梯子を用意し | 屋根の上を掃き掃除 |
今度は土台の木材を | 荷台の上で組み立てる |
山車の横架材を吹き掃除 | 脚立を移動し |
屋根の反対面も掃除していく | 椅子と破風も吹き掃除 |
鳳凰と紫の捩りが外される | 砂利がすっかり取り除かれる |
掃除は | 念入りに |
社殿裏からは | 大神輿の轅を運び出し |
鳥居前を通って | 輿堂前へ移動 |
奥では子供会の山車が | 組み立てられています |
神輿を輿堂側へ寄せ | 轅を |
奥側の棒穴から | 挿入 |
今度は幟竿を担いで | 鳥居を潜ると |
階段を | 降りて行く |
踊り場の横には | 子供神輿が1基 |
幟竿は鳥居を潜って | 道路へ出る |
飾りの彫刻や屋根 | 幟が置いてあります |
幟竿は鳥居前の | 道路脇におろす |
階段を上がると | 社殿裏から |
もう一本の轅を運び出し | 輿堂へ |
手前側の棒穴へ | 轅を挿入 |
神輿は昭和60年に | 修復されています |
青年会の山車では | 屋根の前後に |
破風を取り付け | 昨年の写真で位置を確認 |
運転席側の柱には | 紅白の紙テープを巻く |
境内の裏口からは | 麦藁を積んだ軽トラックが |
荷台に溢れんばかりの藁 | 社殿横のトラックにも大量の藁 |
鳥居付近には提灯枠を | 取り付けるようです |
階段下から | 花飾りを運び |
山車の近くの | フェンスへ立てかける |
山車を鳥居側へ下げ | トラックをバックで寄せる |
物凄い数の花飾りです | 数本は軽トラで別の場所へ |
鳥居前では提灯枠を立てる | 山車を持ち上げ |
トラックの荷台へ載せ | 土台に固定すると |
アオリを閉める | 正面の柱にも |
紅白の紙テープを巻いていく | 荷台へはラッシングベルトで固定 |
屋根には | 花飾りを取り付ける |
蕨手に小鳥を差し込む | 提灯枠はロープで釣り上げます |
こちらは山車に巻く | 紅白幕 |
針金を切って | 花飾りを固定 |
山車とトラックは | 念入りに固定 |
なんという量でしょう | 提灯枠が設置完了 |
社殿前に飾る高張提灯 | 花の先端には長い紙テープ |
境内の裏からはまたもや | 大量の藁を積んだトラックが |
どんな祭りになるのか | 想像が付きません |
ここでお茶が配られ | 青年会もしばしの休憩 |
神輿では捩り掛けが始まる | 山車では紅白幕を巻き付ける |
木陰では藁を使って | 何やら作業が始まります |
紅白幕は | 山車を一周覆います |
麦藁にはブルーシートを掛ける | 捩り掛けを終えた子供神輿 |
藁は束ねて人の背丈ほどに | 一体何に使われるのでしょうか |
花飾りは運転席側にも | 謎は深まるばかりです |
時刻は10時半 | 準備はまだまだ続きます |
神輿では轅を固定 | こちらの旗は神事で使う様です |
階段下ではクレーン車を使って | 幟立てが行われる |
2本の晒を撚って | 1本の綱にしていきます |
縦の花飾りは今年初の試み | ドアが開く様に紅白幕を調整 |
クレーン車が | 幟竿を立てると |
支柱へ貫を通して | 竿を固定 |
花は横にも通して | 高さ方向のバラツキを抑えます |
こちらは配線の作業中 | 場所は変わり倉庫では |
太鼓の準備が始まる | こちらは第一子供会の山車 |
境内下では西側の幟が | 立てられる |
青年会の山車では | ベニアの掲示板を設置 |
両サイドに取り付け | 昇降用の梯子を掛ける |
こちらは第二子供会の山車 | 子供神輿が2基あります |
幟竿には可愛らしい彫刻が | 青年会は正面にも掲示板を |
今度は綱を芯に晒を巻き付ける | 鳥居には注連縄を渡す |
配線が終わり電球を取り付け | 青年会の提灯を取り付ける |
神輿ではいよいよ | 捩り掛けが始まります |
下大槻では鳳凰に掛けません | 青年会の締太鼓を増し締め |
セイレイハジメ・祭礼始め (開始11:45)
健速神社の祭礼では、幟が上がると「セイレイハジメ」とよばれる行事が行われ、境内に茣蓙を敷いて飲み会が開かれる。セイレイハジメの由来は定かではないが、「祭礼始め」が変化したという説があり、幟が上がると同時に健速神社の祭礼が始まるという意味合いで使われている呼称である。
お宮の入口には | 幟が2本上がりました |
捩りは蕨手から轅へ | 山車には雨対策のビニールシート |
社殿前では | 茣蓙を敷き |
飲み物を用意して | セイレイハジメの準備を進める |
横方向からも晒で締め上げる | 拝殿には幕を垂らす |
鳳凰は捩り掛け後に取り付け | 第一子供会の山車が |
お宮に到着 | シートはいつでも下せるように |
お宮の役員から声が掛かります | 青年会は正面にもビニールシート |
瓶ビールの蓋を開けます | 式典の準備が整ってきました |
神輿では横棒を縄で固定し | カケヤで締め上げる |
鳥居には榊の飾りつけ | 準備は続いていますが |
準備を終えた人から | セイレイハジメを開始 |
こちらは締太鼓の枠を運び | 青年会の山車に設置 |
締太鼓を竹で固定 | 太鼓の準備が整いました |
拝殿には椅子が並べられる | 13時頃にセイレイハジメが終了し |
午後の行事まで一旦解散 | 青年会は階段を降り |
自治会館で | 昼食を取ります |
川場神事 (開始14:00)
セイレイハジメから昼食を挟み、14時からは健速神社特有の神事である「川場神事」が執り行われる。現在は神社境内の南側にある稲田で行われているが、かつては川場の文字通り、南平橋より上手の清水の場所で行われていたようで、神輿や奉仕者の祓(はらえ)であった。
現在の川場神事は稲田前で神事を執り行い、稲田で抜き取った稲を社殿へ持ち帰るという内容である。稲は神前に供えられてから、神輿の鳳凰の嘴に銜えさせる稲穂飾りに使われる。太平洋戦争前の祭礼が7月9日であったことを考えると、当時はコメの収穫時期ではなく、現在とは異なる行事が行われていたことが想像できる。川場神事が何時ごろから始まったかは定かではないが、明治期には金目川で神輿が清められたといい、時代と共に神事の内容が変化してきた可能性が考えられる。古老の話では元服を迎えた者が川へ入って禊を行ったという。
川場神事では南平と宿矢名も参加し、それぞれの山車が境内へ集合する。稲田での神事を終えた行列がお宮へ向けて出発すると同時に、三地区の太鼓の山車が一斉に太鼓を打ち鳴らす光景が印象的である。
13時20分頃に | 山車が一台お宮に到着 |
南平の山車です | 下大槻の奥へ止める |
曾屋神社の宮司が到着 | 南平も大太鼓が横に並ぶ |
青年会員がお宮に集合 | 南平が太鼓を止めると |
山車がもう一台 | お宮に到着 |
今度は宿矢名です | 下大槻と南平の間にとめる |
こちらの家族は | お祓いを受けます |
掲示板にはのし紙を貼っていく | 私のもこの中に入っています |
社殿前では | 神事の準備が始まります |
こちらは幣帛でしょうか | 小さめの馬 |
宮司も境内へおりてきました | 馬は幣帛の為の様です |
五色旗は子供会の担当 | 社殿からは小さい鳳凰 |
1年の埃を落とします | 何に使われるのでしょうか |
一般的な神事ではなさそうです | 14時頃になると |
健速神社の旗を先頭に | 一列に隊列を組んで |
社殿前を出発 | 私の個人的な気持ちですが |
これから何が行われるのか | 非常に楽しみです |
階段を下り | 鳥居を潜って右折 |
T字路で左折し | 南へ向かって進んでいく |
神事中は私語が禁止されて | いるので風の音しかしません |
向かう先には八足台 | 上には塩が置かれています |
一行は | 十字路で右折 |
14時10分に八足台の置かれた | 場所に到着しました |
台には鳳凰も置かれます | 準備が整うと |
神事が始まる | 最初に祝詞奏上 |
続いて修祓 | 鳳凰と幣帛 |
お清めの水桶もお祓い | 更に正面の田んぼもお祓い |
最後に参列者を | 修祓 |
マスクをした氏子が | 水田へ向かい |
稲を抜くと | 用水路で泥を落とす |
もう一名が稲田へ向かい | 稲を抜いて泥を落とす |
更に半纏を来た2名が | 稲を抜き |
根に付いた泥を | 洗い落とす |
稲の担当は主に青年会です | 稲田前での神事が終わると |
神社旗を先頭に川場を出発 | お宮では太鼓が打ち鳴らされる |
行きと同じ行列を組み | 十字路を左折 |
お宮へ向かって引き返す | 帰りも私語は厳禁です |
太鼓が良く響きます | 一行は突き当りの |
T字路を右折 | 抜いた稲は持ち帰る |
お宮の前まで来ると | 一の鳥居を潜る |
境内では下大槻青年会 | 宿矢名の諏訪会 |
南平青年会が太鼓の競り合い | 先頭の神社旗から |
二の鳥居を潜っていく | 馬 |
宮司 | 水桶 |
稲持ちが2名 | 五色旗 |
鳳凰 | 残り2名の稲持ち |
行列が社殿前に到着 | 宮司は神輿をお祓い |
鳳凰は台に足を挿して固定 | これから社殿で神事が始まる |
宵宮祭 (開始14:30)
川場神事の行列がお宮に到着すると、社殿では宵宮祭が執り行われる。宵宮祭が終わると南平と宿矢名の山車はそれぞれの地区へ戻っていく。
川場神事の行列が到着すると | 太鼓は演奏を止める |
宮司は5台の山車を | お祓いして回ります |
お祓いが終わると | 社殿へ入り |
参列者も | 社殿へ上がる |
太鼓の合図で | 14時30分に神事が開始 |
20分程で神事を終えると | 出席者は境内へ |
抜いてきた稲は神輿の | 鳳凰に銜えさせるようです |
宿矢名と南平は | 山車へ向かい |
太鼓を叩いて | 南平から |
お宮を出発 | 続いて宿矢名がお宮を出発 |
それぞれの地区へ帰っていく | 宮司も曾屋神社へ戻ります |
地回り (山車巡行)
●健速神社 (出発14:55)
宵宮祭が終わると、下大槻青年会の山車は太鼓を叩きながら健速神社の氏子範囲(下大槻・南平・宿矢名)を巡行する。なお、下大槻の第一自治会と第二自治会のそれぞれの子供会の山車は、それぞれの自治会区域を巡行する。
青年会が山車の前に集合し | 乾杯して |
山車に乗り込むと | お宮を出発 |
宵宮は神輿渡御がありませんが | 山車は巡行します |
山車に乗らなかった青年会員は | 階段を下りて先回り |
山車は突き当りで右折し | お宮の正面を通過 |
これから下大槻地区を | 巡行していきます |
※地回り(山車巡行)の様子は下記のページを参照。
地回り(山車巡行)
●健速神社 (到着19:10)
地回りを終えた下大槻青年会の山車は境内の裏手から宮入りし、宿矢名と南平の山車も境内での神輿担ぎの為に健速神社にやってくる。
お宮の裏では | 子供会の山車が |
先に宮入り | 2基の山車が並びます |
続いて青年会の山車が | 宮入り |
境内で太鼓が | 打ち鳴らされます |
社殿横では刺身の準備 | 宮入り後も続く太鼓の音 |
ここで雨が降りはじめ | 横のビニールシートもおろします |
19時25分になると | 宿矢名の山車が到着 |
下大槻の奥へ止め | 太鼓を打ち鳴らす |
続いて南平の山車も | お宮に到着し |
宿矢名の奥へ止め | 太鼓を打ち鳴らす |
神輿担ぎ
宵宮では神輿の渡御は行われないが、境内でのみ下大槻・南平・宿矢名の担ぎ手によって神輿が担がれる。なお、神輿担ぎ前には女神輿が宮入りし、境内で女神輿版の“おおや”が行われる。神輿担ぎを終えると南平と宿矢名の山車はそれぞれの地区へ戻る。
ここで女神輿が | お宮の裏から宮入りし |
轅を肩からおろして | 抱えながら社殿前を走り抜け |
輿堂前で引き返し再び走り出す | 山車の前で止まると |
東へ向いて再び走り出し | 鳥居前で左へ旋回して |
社殿へ向う | 階段を上がり |
差し上げる | 社殿を離れると |
輿堂前へ移動し | 19時30分に宮付け |
競り合いを続けていた | 3基の山車は太鼓を止め |
3地区が境内へ集まり | 下大槻青年会長の挨拶 |
刺身と飲み物が配られ | 神輿担ぎ前に休憩が取られる |
ここで雨脚が更に強くなり | 各地区の山車は雨対策 |
19時50分になると会長の挨拶で | 3地区の担ぎ手は |
輿堂前へ向かい | 神輿を担ぎ上げる |
社殿前を通過し | 境内を練り歩く |
山車の前で | 引き返し |
社殿前を通過して | 再び輿堂前へ |
雨でも構わず担ぎます | 再び山車の前で引き返し |
社殿前で旋回すると | 社殿へ向かって進んでいく |
拝殿の手前で止まり | 神輿を差し上げると |
社殿を離れて | 輿堂前へ |
正面を南へ向けて | 輿をおろす |
下大槻青年会長の挨拶で | 8分程の神輿担ぎを終え |
3地区はそれぞれの山車へ移動 | 下大槻 |
宿矢名 | 南平が太鼓を叩く |
中央の宿矢名がバックし | 競り合いを抜けると |
健速神社を出発し | 宿矢名地区へ戻っていく |
続いて南平の山車が | 移動し |
お宮を出発して | 南平地区へ帰っていく |
直会・宮番
神輿担ぎで宵宮での行事はすべて終了し、下大槻では健速神社の社殿内で直会が開かれる。青年会は宮番があり、大祭の朝までお宮に泊まり込む。
社殿では直会の準備 | 太鼓を叩き続ける青年会 |
拝殿にビニールシートを敷き | さらに茣蓙を敷きます |
宵宮では20時40分頃まで | 太鼓が叩かれ |
その後は社殿に集まり | 始めに大総代の挨拶 |
続いて青年会長の挨拶で | 乾杯 |
直会は朝方まで続きます | 明日はいよいよ大祭です |
囃子
●下大槻青年会
下大槻に伝わっている曲目は「バカッパヤシ」と「ミヤショウデン(宮昇殿)」の2曲で、バカッパヤシは「ブッツケ」から始まり、祭礼中の殆どで叩かれる曲である。楽器の構成は締太鼓2個と大太鼓1個で、かつては笛が入っていたようであるが、現在は伝承されていない。
下大槻では下大槻青年会の山車の他に、下大槻第一自治会の子供会の山車と、下大槻第二自治会の子供会の山車、計3台あり、健速神社の祭礼中は青年会の山車が下大槻・南平・宿矢名の三地区を移動するのに対し、子供会の山車はそれぞれの自治会区域のみを移動する。
囃子の構成は締太鼓2個と | 大太鼓1個が横に並ぶ |
下大槻の | 青年会の山車 |
下大槻第一自治会の | 子供会の山車 |
下大槻第二自治会の | 子供会の山車 |
●南平青年会
●南矢名諏訪会
囃子は「大太鼓1」・「締太鼓2」で構成され、曲目は「祭ばやし」・「みやしろでん」がある。2年に1度開催される諏訪明神の大祭(7月上旬の土・日曜日)には山車で巡行し、健速神社の大祭でも演奏される。
太鼓練習
下大槻地区では健速神社の境内で太鼓の練習が行われ、下大槻青年会が子供たちの指導に当たっている。練習は8月の毎週土曜日と大祭前の月曜日から金曜日まで行われ、19時から20時までが子供の練習、休憩を挟んで21時までが青年会の練習となっている。以下に、平成28年(2016年)9月1日の木曜日に行われた練習の様子を紹介する。
下大槻の練習は | 健速神社の境内で行われる |
祭礼に向けて提灯と | 幟が取り付けられています |
青年会は太鼓の準備 | 台を降ろし |
太鼓を運び出すと | 階段を上がっていく |
台に締太鼓をセットし | 大太鼓は |
鳥居の柱に | 縛り付ける |
境内には茣蓙が敷かれ | 子供たちが座ります |
準備が整うと | 19時からは子供の練習 |
茣蓙では角棒を叩く | 締太鼓には |
列を作って順番待ち | 子供が沢山参加します |
30分ほど叩くと | 休憩を入れ |
再び練習を | 再開 |
子供の練習は20時に終わり | 角棒を片付ける |
茣蓙は移動して | 社殿前に敷いていく |
子供達にはアイスを配り | 20時15分頃から |
大人の練習が | 始まる |
締太鼓の台は対面式です | 柱に縛るのは珍しいです |
途中で | 休憩を入れ |
再び練習を | 再開 |
21時になると | 太鼓を片付け |
社殿前で宴会が始まります | この日は23時前に解散 |
神輿
健速神社の神輿の創作経歴は不明だが、天保3年(1832年)の塗師横山大輔銀長等、昭和3年(1928年)の秦野町石井佛具店修理の記録がある。昭和60年(1985年)には破損が甚しかったため改修を施行した。
下大槻にはこの他に各自治会の子供神輿があり、若草子供会の神輿は団地関係の子供神輿である。なお、中型の神輿はもともと下大槻第二自治会の子供会で高学年用に使われていたが、少子化により担ぎ手が減少したため有志で修理を行い、現在は女神輿として宵宮にお宮の周辺で担がれる。
健速神社神輿 | 捩り掛け後 |
提灯取り付け後 | S60年の修復前の神輿 |
下大槻第一自治会の子供神輿 | 下大槻第二自治会の子供神輿 |
南平の子供神輿 | 宿矢名の子供神輿 |
若草子供会の神輿 | 中神輿(女神輿) |
下大槻の歴史
下大槻(しもおおづき)は秦野市の南東の端に位置し、旧小田原道に沿って西から峰・宮下・岩井戸・欠ノ上の集落が並んでいる。南平はこの並びとは金目川を隔てた南側に位置し、南隣の平塚市と接している。下大槻の地形は矢名に接する台地から南側の田の地帯と、川向こうの台地からなっている。田場所に接する台地の側面には岩井戸横穴群、欠ノ上横穴群、そして台地には広畑古墳群、二子塚古墳群と古墳時代の遺跡が多く、古くから人が居住していたことを示している。
元弘3年(1333年)や明徳4年(1393年)の鎌倉浄光明寺の記録によると、同寺領として「大槻村」が記載されている。応永27年(1420年)12月21日の『関東公方足利持氏御教書』には「波多野庄内平澤村、大槻村」、さらに享徳2年(1453年)12月15日の『関東公方足利成氏御教書』にも「波多野庄内大槻村」がみえる。いつ頃に上大槻と下大槻の二村に分かれたのかは不明であるが、永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』には「中郡 大槻上下」という記載があることから、この頃には既に分村していたと思われる。また、正保国絵図には「下大月」とあり、健速神社の庚申塔の銘にも下大月とある。
近世初期には幕府直轄領で、寛永10年(1633年)に旗本多門・川勝領の二給による相給知行、明治初年の旧高旧領取調帳では旗本多門・安藤・岡部領の三給となっている。享保19年(1734年)の『東海道小田原宿助郷帳』によれば助郷高347石、大麦・甘藷・越瓜・西瓜など畑作が中心で、『風土記稿』には特に大麦は佳品なりと記している。『風土記稿』にある小名は「欠ノ上」・「岩井戸」・「峯」であり、天保5年(1834年)の戸数は109であった。中央を金目川が西から東へ流れ、東は南金目村(現平塚市)、北は南矢名村、西は上大槻村と曽屋村に接していた。金目川右岸の南平を波多野道が東西に、南矢名村境を大磯道が東西に通っていた。
昭和16年(1941年)の戸数は142戸で、集落の規模はそれほど変わっておらず、昭和40年(1965年)頃でも8割以上は農家であったという。自治会名簿によると昭和60年頃の戸数は367戸となり、職業欄に農家とある家は僅か39戸と全体の約一割となった。近年までは水田耕作や野菜栽培などが中心の純農村地帯であったが、昭和47年(1972年)に日本住宅公団下大槻団地が完成したのをはじめ、東海大学湘南校舎の開校にともなう学生寮などが立ち並ぶなど、この20年で集落の規模や構成が大きく変化していった。現在では新興住宅地と旧来の農家が混在する農村携形態を呈している。
南平地区は本村とは金目川で隔てられた南側大地上にあり、温室園芸や野菜栽培が主流となっている。古くから戸数の変化が少なく、新世帯の家も二・三男の分家といったものが大部分であった。
下大槻の社会組織
下大槻は近世の幕制村である。大根村に合併してからは大字となったが、健速神社の祭礼をはじめとしてムラとしてのまとまりを持っている。下大槻には「大峰」・「中峰」・「宮下」・「岩井戸」・「欠の上」・「南平」の集落があり、これらはブラクと呼ばれていた。南平は40戸くらいあったが、他は十数戸の集落であった。下大槻の中の町内会は「下大槻第一」・「下大槻第二」・「南平」の3つがあり、それぞれ次のようになっていた。
下大槻第一・・・大峰・中峰
下大槻第二・・・宮下・岩井戸・欠の上
南平・・・南平
町内会は昭和16年(1941年)の『神奈川県中郡大根村勢要覧』には「部落会区」という名称で書かれている。大峰・中峰といった集落も、下大槻第一のような集まりも、場合によってはブラクと呼ぶこともあったようである。しかし、普段の生活の中でブラクという時は大峰・中峰といった集落をさしていることが多い。町内会には会長と役員がいて、町内会の運営にあたっている。かつては大根村の農業委員や土木委員などが町内ごとに選ばれていた。町内会は昭和50年代に自治会というようになっており、下大槻第一自治会と下大槻第二自治会、南平自治会というようになっている。
南平以外のブラクでは講や葬式の手伝いなどをブラクごとに行っており、ブラクより小さな区分に組があるが、家数の変化によって組分けが変わってきた。昭和60年(1985年)頃の自治会の組は次のようになっていた。
下大槻第一・・・一組から十五組まで
下大槻第二・・・宮上・宮下上・宮下下・岩井戸・欠ノ上一組
欠ノ上二組・夕日ヶ丘・広畑
南平・・・関口・大東・東・中東・中西・大西第一・大西第二
青年団と青年会
青年団は大根村青年団(昭和16年からは大根村青少年団、戦後は大根村青年会)の下大槻支部があった。会員は15歳から25歳までの男子であるが、入会の時期は15歳と決まっていたわけではなく、高等科2年を終了してから入会することが多かったようである。入会の資格は特になく、長男以外でも地元に残っている者は加わったが、長男以外は小学校を終えると奉公に出ることが多かったので、どうしても長男が多かったという。大根村青年団では年会費二十銭(昭和初期頃)を集め、年に一度の総会をした。
青年団の行事はスポーツ大会・月見・勤労奉仕などがあった。スポーツ大会は陸上競技を競うもので、大根村の大会を勝ち抜くと西部大会、郡大会、県大会と進むことができた。娯楽の少ない時代であったので青年団以外の者も集まり、村をあげての行事であったという。月見は十五夜のころに月見会と称して飲食を楽しむもので、このときに天神社の石を持ち上げて力比べをした。
嫁入り行列がブラクに入ると青年団が太鼓をたたいたり、提灯を持ったりして県道まで出迎えた。昔はいやがらせやいたずらがあったという言い伝えから警護の意味があり、行列の最後について無事に婿の家まで送り届けた。隣の家を借りてお神酒と煮しめを届けて労をねぎらった。青年たちは12時、1時まで歌をうたって騒いでいた。何かことがあれば直ぐに駆けつけられるように、隣家で待機していたようである。
下大槻では青年団と平行して青年会があり、青年会は35歳までであった。下大槻の青年は25歳で青年団を抜けても、35歳まで青年会に残った。青年会の役目は健速神社の祭礼で神輿を担ぐことで、35歳になるとコシセワニン(輿世話人)として神輿の指導をした。下大槻では青年団と青年会が合同で、年一回の総会を行った。また、女性が入る処女会というものもあり、15歳から嫁に行く25歳くらいまでの娘が入っていた。
大槻東陽(大槻誠之)
下大槻で使われている幟と社殿内に掛けれられている社号額は、旧下大槻村の生まれである大槻東陽(とうよう)の書であると言われている。※以下の文書は『谷中・桜木・上野公園 路地裏徹底ツアー』に記載されている説明文をそのまま載せています。今後は大槻東陽について独自に調査をしていく予定です。
大幟 | 社号額 |
大槻東陽(おおつきとうよう)/大槻誠之(おおつきせいし) 文政5年〜明治36年5月20日(1822-1903) 儒者。名、籟次のち誠之。号、泰嶺・東陽。父、相模国大住郡下大槻村の名主原幸右衛門政房。天保のはじめころ(1830-)江戸に出て、巻菱湖の弟子牧野天嶺(まきのてんれい)に書を習うが、ここで旧友依田学海と再会する。明治に入り、東陽と改名。明治11年(1878)小石川区より東京府会議員となるが、1年余りで辞職する。明治13年(1880)加藤桜老と東洋的学校「大同館」を創建。続いて活動のPRのため「大同新報」を創刊。明治17年(1884)桜老没後は、一人で運営したものと思われる。出版:「訓蒙 日本外史 全七冊」解釈者・「啓蒙国史略」編輯・「皇朝歴代沿革図解」編輯・「入蜀記註釈. 巻第1-6」 陸游 著:大槻東陽 註釈・「国字分類 古今歴史集覧」編集・「暦代日本伝 六巻」著。82歳。妻、矢野多津子。 墓は、谷中霊園 乙3号11側。南端。正面「大槻家之墓」。墓域は荒れている。
光西寺と金毘羅堂
下大槻にある寺院は南平の曹洞宗大槻山「光西寺」の一寺のみで、『風土記稿』によれば真田村(現平塚市)の天徳寺末寺で、文禄年間(1592〜96年)に創建されたと伝える。地元南平に旧来からある家は全て光西寺の檀家であった。檀家としては下大槻の他のブラクや秦野に南平から出た家があるほか、遠藤原(中井町)にも広がっている。
曹洞宗大槻山光西寺 | 寺号塔 |
結界石(不許葷酒入山門) | 六地蔵 |
本堂 | 墓地 |
光西寺の墓地脇に一軒半・二間ほどの金毘羅大権現の扁額が掛けられた堂がある。昭和10年代までは10月10日が金比羅さんの縁日となっており、光西寺の境内に舞台を設置して地芝居が開催されていた。地芝居は村の若衆がやったり、厚木から神楽衆を呼んだこともあったという。地芝居がかかると光西寺の参道には露店が軒を並べ、下大槻だけでなく近郷からも多くの参拝者があったという。この10月10日の大祭には光西寺の本寺である平塚市真田の天徳寺や、同寺の末寺である極楽寺(秦野市落幡?)の住職が手伝いに来ていた。これに対して光西寺からは8月23日に行われる天徳寺の大祭(真田尊)と、7月9日の真田天王祭に住職が使僧として参加していた。
戦後、この金毘羅大権現祭は行われなくなったが、毎月1日と10日には参加者も南平地区の人たちだけで、少人数ながら光西寺住職のもと御祈祷が行われるようになった。金毘羅大権現堂は六畳間ほどの広さがあり、寺及び年寄連の会合などに使用されていた。昭和50年代になって改築されたが、年寄連が中心となって寄進されたものである。また、金毘羅大権現堂前の十坪ほどの空き地には、明和4年(1767年)に造立された大乗妙典供養塔がある。
金毘羅(大権現)堂 | お堂 |
大乗妙典供養塔 | 石碑 |
健速神社の祭礼において金毘羅堂は南平での「盗み神輿」で利用されるお堂で、下大槻・南平・宿矢名の3地区の青年会がここに集合してから、神輿が安置されている南平自治会館へ向けて出発する。
金毘羅堂に集まる青年会 | 南平自治会館での盗み神輿 |
一番太鼓 (開始5:00)
ここからは平成28年(2016年)9月4日の日曜日に行われた大祭の様子を紹介する。宵宮から宮番のためにお宮へ泊まり込んだ青年会は山車に太鼓をセットし、大祭の早朝5時丁度にバカッパヤシを3周だけ打ち鳴らす。
早朝4時26分にお宮へ到着 | 青年会は直会の後片付けや |
祭礼の準備をしています | 山車では締太鼓の調整 |
私は2時間ほど仮眠しましたが | 青年会は勿論殆ど寝ていません |
社殿は綺麗に片付いています | 枠に締太鼓をセット |
花を持ち出し | 向拝の屋根に梯子を掛け |
軒裏に花を取り付ける | 準備を終えた山車は消灯 |
青年会は神輿へ向かい | 掛けてあった |
ブルーシートを外して | 折り畳む |
5時5分前です | 山車の照明をつけ |
叩き手が山車に乗り込み | スマホで時刻を確認します |
5時丁度になると | ブッツケから |
バカッパヤシを演奏 | 気持明るくなってきました |
下大槻に響き渡る | 太鼓の音 |
3周で切り上げ | 太鼓を外して |
スパナで緩めます | 引き継ぎで来たお宮の役員は |
式典の準備を始めます | 大分明るくなってきました |
頑張って来た甲斐がありました | テーブルを片付ける青年会 |
5時15分になると | 青年会長の挨拶があり |
青年会は一旦解散 | 僅かな睡眠を取りに帰ります |
大祭準備
宮番をした青年会は5時過ぎにお宮の役員と宮番を交代し、8時30分まで各自仮眠を取りに自宅へ帰っていく。大祭の準備は朝から順次進められ、お宮では式典の準備、3台の山車では神輿渡御に向けて出発の準備を進めていく。
8時20分頃からは三地区の子供神輿がお宮に集まり始め、輿堂前に置かれた宮神輿の周辺に並べられていく。また、8時40分頃には南平と宿矢名の山車がお宮に到着する。
椅子が並べられます | このあと一時雨が降ってきます |
境内では掃き掃除 | そろそろ8時になります |
五色旗は大祭でも使われます | 境内に止めてあった |
クレーン車がお宮を出発 | 氏子が増えて来ました |
第1子供会の山車では雨除けの | ビニールシートを上げて行く |
青年会の山車もシートを上げる | 明け方の雨から一変 |
今日は晴れそうです | ここで軽トラックが現れ |
境内に入ってきました | 子供神輿をのせています |
荷台からおろし | 輿堂近くにおろす |
階段下からも | 子供神輿が登場 |
鳥居を潜り | 輿堂付近へ |
第二子供会の山車も準備開始 | 式典に向け |
子供神輿が続々と登場 | どの地区か区別が付きませんが |
小さい神輿は3基目です | 第一子供会は太鼓を設置 |
青年会は山車の四隅に | 提灯を取り付ける |
8時半に曽屋神社の | 神職が到着 |
階段下からと | 境内裏から |
1台ずつ | 子供神輿が登場 |
子供神輿はこれで最後 | 全部で5基あります |
第二子供会は大太鼓を設置 | 南の方から太鼓の音が |
南平の山車の様です | 宮本青年会が挨拶に来ました |
南平の山車が | 境内裏から到着 |
境内の一番南 | フェンス側に止まる |
雨の心配はなさそうなので | 正面のシートを上げます |
時刻は8時40分 | 東の方から |
宿矢名の山車が到着 | 南平と下大槻の間に入る |
子供が大勢乗っています | 第二子供会の方も太鼓をセット |
時刻は8時45分 | 青年会は締太鼓を増し締め |
山車の掲示板にのし紙を貼る | こちらは帯を巻きます |
発輿祭 (開始8:55)
8時55分からは社殿内で曾屋神社の宮司により発輿の儀が執り行われ、宮神輿と子供神輿に御霊が遷される。
8時55分になると太鼓の合図で | 発輿祭が始まります |
下大槻・南平・宿矢名 | 3地区の担ぎ手は |
輿堂前へ移動し | 子供神輿を移動させると |
大神輿に肩を入れ | 担ぎ上げる |
そのまま鳥居方向へ移動し | 旋回して社殿へ向き |
位置を整えて | 輿をおろす |
社殿内での神事を終えると | 青と白の幕を出し |
神輿の東側を覆う | 更にもう1枚は |
神輿の西側を覆い | 神輿へ御霊が遷されると |
幕が外され | 宮司が社殿へ戻ります |
神輿の唐戸を閉める | 社殿ではお神酒の準備 |
神職が | 子供神輿を |
1基づつ | 順番にお祓い |
続いて子供神輿に | 御霊を入れて行く |
神輿渡御
●宮立ち (出発9:45)
神輿への御霊入れが終わるといよいよ宮立ちとなり、子供神輿から順番に正面の階段を下りて神輿渡御が始まる。
青年会は襷を受け取り | 宮立ちまで待機 |
9時半になると | 大総代から挨拶があり |
お神酒を順番に受け取って | 飲みながら奥へ進んでいく |
続いて神輿委員長の挨拶 | 私もお神酒を頂きました |
挨拶が終わると | 青年会は社殿前に集まり |
会長の挨拶 | もう直ぐ神輿渡御です |
五色旗が配られ | 最初に子供神輿からお立ち |
お清めの塩係も出発 | 階段を下りて行く |
続いて高張提灯が | お宮を出発 |
子供神輿が | 次々と |
階段を下りて | 宮立ち |
4基目の子供神輿が | 出発 |
続いて | 神社旗 |
子供神輿は | これで5基目 |
中神輿は輿堂横へ移動させる | 子供神輿の次は五色旗 |
青年会は | 轅に肩を入れ |
神輿を担ぎ上げる | 山車では太鼓が打ち鳴らされる |
西へ向く神輿 | 太鼓を打つ青年会 |
神輿は山車の前で | 引き返し |
東へ向かって練り歩くと | 輿堂前で旋回 |
社殿前を通過し | 山車の方へ移動 |
境内一杯に | 大きく回り |
2往復すると | 輿堂前で引き返して |
鳥居前で | 南を向く |
鳥居と | 提灯枠を潜り |
階段を慎重に下りて | 踊場へ |
再び階段を下りる | 下では旗係が神輿を待ちます |
階段を下りると | 鳥居前で一旦止まり |
肩からおろして鳥居を潜って | 健速神社をお立ち |
右折して西へ向かい | 先導の神社旗と五色旗が出発 |
道脇には何故か麦藁が | どんな渡御になるのでしょうか |
※神輿渡御(午前)の様子は下記のページを参照
神輿渡御(午前)
●盗み神輿 (開始14:00)
午後の神輿渡御は南平自治会館から始まるが、お立ち前に健速神社特有の行事である「盗み神輿」が行われる。盗み神輿は南平青年会が中心となって行われる行事で、三地区の青年会が光西寺の金毘羅堂に集合し、そこから神輿が安置されている南平自治会館へ移動し、文字通り神輿を盗むように運び出す行事である。この行事の由来はわかっていないが、御霊の入った神輿を南平の氏子が夜中に盗み出したという説がある。
青年会は歩道に集まり | 西へ向かって移動 |
総代や旗係も | 西へ向かって歩いていく |
光西寺の金毘羅堂に | 青年会が集合します |
総代と旗係は | 正面の通りで待機 |
下大槻と南平の両青年会と | 宿矢名諏訪会がお神酒を頂く |
これから何が始まるのか | 非常に楽しみです |
14時丁度に南平の青年会長が | 走り出し、その後を三地区の |
担ぎ手が無言で続き | 南平自治会館へ向かっていく |
太鼓も南平青年会が担当です | 青年会員らは |
神輿の周りに集まり | 轅を抱えると |
南平の青年会長の合図で | 無言で神輿を抱え上げ |
文字通り神輿を盗むように | 運んでいく |
暫くすると | 神輿を担ぎ上げ |
掛け声も入り | 午後の神輿渡御が始まる |
※神輿渡御(午後)の様子は下記のページを参照
神輿渡御(午後)
●宮入り (到着20:00)
健速神社の氏子地区を渡御し、お宮前で最後の休憩を終えた神輿は、お宮の裏から宮入りとなる。最後の休憩場所からは小さい鳳凰と健速神社の提灯を手にした青年会員が神輿を先導する。
お宮の前を | 練る神輿 |
お宮の前でも | 火渡りが続きます |
鳳凰が神輿を先導 | 田中屋の前でも火がつけられ |
火を渡ると | 左折 |
入り口に置かれた | 火を渡り |
坂を上って | 突き当りを左折 |
お宮まで最後の直線道でも | 火をつけた麦藁が |
待ち受けています | 火を渡り切り |
裏の入口まで来ると | 麦藁が横に並べられています |
T字路を利用して方向転換 | 麦藁に火がつけられますが |
火柱というよりも | 殆ど火の壁です |
本日最大の炎の前に | 流石に担ぎ手も怯みます |
神輿役員に促され | ようやく神輿が |
宮入り・・・なんですが | なんでしょうこの火は |
思わず絶句してしまいました | 社殿の屋根位の高さがあります |
ゆっくりと斜面をおりる神輿 | バカッパヤシで迎える太鼓山車 |
これからいよいよ最大の見せ場 | “おおや”が始まります |
おおや (開始20:05、終了20:15)
神輿が宮入りすると健速神社の祭礼で一番の目玉となる行事である「おおや」が始まる。境内には多くの観客が集まり、秦野市以外から来る人も年々増えているという。社殿横には大量の麦藁が燃やされ、その炎の高さは社殿の屋根程の高さに達する。
昨日作っていたムギッカラの | 先端に火を付けると |
神輿を抱えて境内へおり | 反対側へ向かって走り出す |
“おおや”の始まりです | 神輿の前後に付くムギッカラ |
境内の東端まで来ると担ぎ手は | 向きを変えて反対側に走り出す |
山車の前まで来て | 境内を1往復 |
神輿の向きは変えずに | 再び社殿方向へ走り出す |
輿堂前で引き返し | 西へ向かって走っていく |
“おおや”は担ぎ手にとって | 非常にハードな神事です |
青の誘導棒で | 合図を出すと |
おおやは3周目に突入 | 輿堂前まで一気に走り抜ける |
太鼓の音が鳴り響く中 | 3基の山車の前まで引き返し |
担ぎ手が輿堂の方へ方向転換 | 火力が少し弱まってきました |
担ぎ手は体制を整え | 4往復目に突入 |
社殿前では神社役員や | 神輿役員などが待機 |
この鳳凰には諸説ありますが | 鳳凰を目指して |
神輿が追い掛ける設定です | 神輿は5往復目に突入します |
途中でフラッシュ撮影に | 切り替えましたが |
灰が舞っているのが | よく確認できます |
おおやは6周目に入る | 低い姿勢で駆け抜ける担ぎ手 |
担ぎ手の皆さんは | 汗でびっしょりになります |
ムギッカラが燃えて短くなると | 新しいものに変えて火をつける |
神輿は7周目に入るようです | ムギッカラを振り回しながら |
鳳凰より更に前に出て | 神輿を誘導します |
神輿を抱えての移動は | 腰に負担が掛かりそうです |
輿堂前で | 引き返す |
7往復目を終えると | 神輿は社殿へ向かい |
旋回して正面を社殿へ向けると | 社殿へ押し寄せ |
前方の轅を向拝の下へ入れ | 神輿を差し上げる |
神輿を後退させ | 馬の上におろすと |
青と白の幕で覆い | 御霊が神輿から本殿へ遷される |
還御祭と直会
おおやが終わると神輿から御霊が抜かれ、社殿内では還御の儀が執り行われる。神輿から提灯と轅を外して輿堂へしまうと、社殿前に茣蓙を敷いて直会が開かれる。
担ぎ手はぐったりです | 境内での火の管理は |
地元の消防団が担当 | 灰になるまで燃やしていく |
神輿では青年会により | 提灯が外される |
麦藁はなかなか燃え尽きません | 社殿では還御祭が執り行われる |
青年会は応援団体をお見送り | ようやく火が弱まってきました |
おおやが終わり | 観客は帰路に着きます |
火が弱まると | 消防団はホースを出し |
水を掛けて | 火を消していく |
神輿では捩りを緩め | 横棒を外していく |
社殿では還御の儀を終え | 宮総代が挨拶 |
輿堂の中を整理してから | 神輿を抱えて |
社殿前から移動 | 台車の上におろし |
輿堂側へ寄せると | 轅を抜き取り |
社殿側へ移動 | 火の消えた境内を進み |
社殿裏にしまいます | 社殿では戸締りを始める |
台車に載せたまま | 神輿を輿堂へ納めると |
下大槻青年会の会長が | 三地区の青年会を集めて挨拶 |
20時45分頃に下大槻 | 宿矢名 |
南平の山車に乗り込み | そろそろお別れの時間です |
中央の宿矢名が | 最初に移動し |
お宮を出発 | 宿矢名地区へ帰って行きます |
太鼓を打ち鳴らす | 下大槻の叩き手 |
続いて南平の山車が出発し | 南平地区へ戻っていく |
下大槻の山車はお宮に残り | 最後の叩き納め |
社殿前では茣蓙を敷き | 直会の準備が始まる |
太鼓は21時 | 丁度に終わり |
締太鼓を | 枠から外し |
大太鼓もロープを緩めて | 柱から外していく |
ボルトを緩める締太鼓 | 大太鼓は毛布で包みます |
青年会の提灯を外し | 花の竹に掛けて行く |
山車の照明を消して | 青年会は社殿前の |
直会に参加 | 風情があっていいですね |
青年会会長の挨拶で | 乾杯 |
直会は21時40分頃に終わり | 青年会は帰路に付きます |
下大槻そして南平・宿矢の皆様 | お疲れ様でした |
翌5日の月曜日には片付けが行われ、幟がおろされると「セイレイジマイ(祭礼終い)」と称し、「セイレイハジメ(祭礼始め)」と同様に境内で直会が開かれる。
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